序・最果ての海で

-- これは実話です --

南極の氷の島とヨット、浮き氷に囲まれている。

 吹雪のやんだ、白い午後。

 入江に浮いたヨットから、海に上半身を突き出した。凍りかけて指の切れそうな海水に、袖まくりした両腕を突き入れて、氷山の破片を引き上げる。ガラスのように透明な、十キロ近い塊だ。

 デッキの上にツルハシを振り下ろし、氷を小さく割る。ハッチを開けて薄暗い船室に下りると、すすけた石油コンロに点火して、氷の詰まった鍋を置く。完全な無音の世界に、加圧式バーナーの青い炎だけが、軽快な燃焼音をたてている。

 海岸を下る流れはすでに凍結し、飲み水を得るには氷を融かすほかにない。


 ひとりで南極に着いてから、およそ一か月過ぎていた。白い光と氷に埋もれた最果ての世界では、週五十分の割合で昼が縮まり、海は凍り始めている。急いで脱出しなければ冬がきて、闇と氷に閉じ込められる。が、連日の吹雪に阻まれて、ヨットは北に戻れない。それくらい、初めから分かりきっていたことなのに。

 頑丈に補強された大型船か、砕氷船で向かうのが常識の南極に、全長七・五メートル、わずか二トンのヨットで達した例はない。スポンサーもつかず、資金不足で満足な装備もなく、ひとりきりで挑戦することも、人々は命知らずと言いきった。このまま南極を出られずに、極寒の海で凍るのか。


 船室のハッチをガタリと開けて、白い光の満ちた外気に出ると、薄氷のフィルムが張った水面に、黄色いゴムボートを投げ降ろす。手袋をはめて二本のオールを握ると、ドラムカンほどの浮き氷を一つ一つ避けながら、入江の岸を目指して漕いでいく。

 やがて岩場に着くと、急斜面を這い登り、丘の頂に立ち上がる。雪嵐の一休みした空の下、息を呑むほど広大な、南極のパノラマが開けていた。

 百キロ先もクリアに見える、水晶のような大気。その中にそびえ立つ、岩と氷の険しい峰々、青い蛍光色に染まった氷河の絶壁。冷えきった灰色の海に目を移すと、異世界のように荒涼として、純白の氷山が並ぶ。

 これは現実か。ぼくはどうしてここにいる。なぜ、ひとりぼっちで町を飛び出し、遠く寂しい地球の果てに……

 故国を離れて費やした五年の歳月、二度と戻らない青春の日々も、体のすべての部分で同時に感じとる、目前の山々と空と海の景色と交換なら、少しも惜しいとは思わない。

 命と交換でも、悔いはなかった。


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