町に何が起きたのか。
真っ昼間というのに人影はない。草色の軍服を着た兵士だけが、サブ・マシンガンを握って十字路の角に立っている。
一本きりの商店街に並ぶ店々も、みな閉まっている。どうしたのか? 太陽ばかりが無音で輝く砂漠の町を、不思議な心地で歩いていた。
チリ最北端の港、ペルーとの国境に位置する町、アリカ。小さなヨットクラブに[青海]をめて、ぼくは未知の町を踏んでいた。片手には〈21 DE MAYO 630〉と記したメモを持っている。
静まりかえった商店街を抜ける直前、やっと見つけた一軒の店。表のシャッターは閉められて、やはり人の気配を感じない。だが、店の横に小さなドアがついている。二階の住居に通じているらしい。呼び鈴の白いボタンを押してみる。
階段を駆け下りる音が響いて、ドアが開くと、目の前に浅黒い女の顔が現れた。三つ編みの髪と、腰の大きな安産型の体形は、インディオの娘に違いない。この家の使用人なのか。
スペイン語を話せないぼくは、顔を見合わせて口ごもる。見慣れぬ東洋人に彼女も困惑して、言葉にならない声を少し出す。と、階段を上って姿を消した。
入口で数分待つと、やせた老人が階段の上に顔を見せ、二階に手招きした。カワナベという日本人だ。狭い町のことだから、同国人の到着を、ヨットクラブからの電話で知っていた。遊びに来るようにと、ぼくは伝言をもらっていた。
案内された二階の住居では、ちょうど昼飯の最中で、河鍋さんの奥さんと二十歳くらいの娘がいる。スペイン系の血が混ざっているのか、色白で瞳の大きな、すごい美人の娘さん。
ぼくは見つめて話しかける、が、さえぎるように河鍋さんは言った。
「日本語は教えてないもんでね」
太平洋戦争の直前、移民が<棄民>とも呼ばれた悲しい時代、彼は新天地を求めて南米に移住して、日系人を妻にした。でも、日本語を知らない女性だったから、河鍋さんも普段はスペイン語を話しているという。
インディオの女が、輪切りのトウモロコシや牛肉入りの澄んだスープを運んできた。ぼくは河鍋さんに勧められて、テーブルの深皿に入ったソースをスープにかけてみる。
パセリやトマトのみじん切り、唐辛子、オリーブ油、酢を混ぜた、このチュミチュリと呼ばれる自家製ソースは、チリの日常的な調味料の一つらしい。
日本茶碗に盛った米の飯も御馳走になりながら、三か月続いた旅の様子を河鍋さんに説明する。赤道で赤い線を見つけたこと。ペルー海流の中でクラゲの大群に遭ったこと。ここアリカに着く前日に飲料水がきれたこと。航海の前には、サンフランシスコで半年ほど暮らしたことも。
「戦前、南米に渡ってくる途中でね、移民船が北アメリカにも寄港したよ。そのときサンフランシスコのゴールデン・ゲート橋を見て、あまりの壮大さと、それを造る技術力に驚いたもんだ。こんな国と戦争しても日本は勝てないと、直感的に思ったよ」
食事が終わると、彼は急にイスから立ち上がり、奥の小部屋に案内した。カーテンの閉まった少し暗い室内には、ベッドが一つ置いてある。そこに寝るようにと言う河鍋さんの顔を見て、ぼくは一瞬、戸惑った。
「そうか、あんたはまだ知らないわけだ。この国ではね、昼の十二時になると仕事をやめて、食事をゆっくり楽しんだ後、夕方までシエスタ(昼寝)するのが習慣だ。昼過ぎは、家の外には誰もいない。商店街も夕方の四時まで閉まったままだ」
なるほど、町が静まりかえっていた謎が解けた。十字路で見た兵士のこともきいてみた。
「ああ、緑の制服に緑のネクタイだろう。あれは軍隊ではなくて警察だ。警官が短機関銃を持つのは普通だよ。チリではね、警官をカラビネーロと呼ぶんだ」
カラビネーロとは、スペイン語でカービン銃手を意味するらしい。
ベッドの横に靴を脱いで、二時間ほどシエスタすると、四時になった。ぼくは一階に下りて、シャッターを上げたばかりの河鍋商店を見物する。
ガラスケースを並べた奥行きのある店内には、白人系の若い女店員が二人いて、和風の置物や文房具などの日本製品を売っている。
でも、それは河鍋さんの副業で、本業は日本車の輸入販売らしいのだ。チリ北部の販売権を一手に握り、郊外には整備工場も経営するという。願ってもないチャンスだった。
「工場で雇ってもらえませんか。日本の自動車整備士の資格は持っています。実は航海に必要な食糧や修理材料が買えなくて……」
[青海]の棚に隠した百五十ドルが、所持金のすべてだった。
断られて当然。が、河鍋さんは少し考えて言う。
「まあ、どうしても働きたいなら、明日から工場に来てみるんだな。ただ、はっきりさせておくが、あんたに給料を払うつもりはない。それでよければ午前中だけ働いてごらん」
一瞬、ぼくは返事の言葉も分からずに、頭を下げると店を出た。
にぎわい始めた小さな商店街を通り、民族衣装のスカートを何枚も重ねたインディオの女達とすれ違い、木が一本もない砂漠の黄色い丘を回って、夕暮れの海辺に引き返した。
港に泊めた[青海]から、仕事に通う日々が始まった。
新築のコンクリート造りの整備工場で、ツナギ服を着て日本車のエンジンを直したり、車体の塗装も手伝った。スペイン語で話す整備工たちと、互いに身振り手振りで意思を伝えながら作業する。
それでも、不思議なほど気心が通じて友達になれる。言葉以上に大切なのは、相手を分かろうとする気持ちや努力かもしれない。
仕事が正午に終わると、河鍋家で昼飯を御馳走になった後、港の小さなヨットクラブに戻って[青海]の整備を進めていく。サンフランシスコからの長旅で、イカのような貝のような奇妙な形の生き物が、船底一面に生えていた。
クラブのキャプテンを務める親切なエミリオは、手動ウィンチで[青海]を岸に揚げてくれたから、ぼくは鉄ベラを握って船底の烏帽子貝をかき落とす。
作業に熱中しながら、ふと気がつくと、あたりで海水浴をしていた白人女性が、水中を岸に向けて歩いてくる。
近づくにつれ、黒い水着の胸が水面に出て、やがて白い両脚も見えてきた。体全体が海から上がったとき、彼女はもう、ぼくの前に、しっとり濡れた姿で立っていた。
「チリで、お友達はできたの?」
黒髪に彫の深い目鼻立ち。シルビアという名だった。この町の小さな大学で、ピアノを教えているらしい。教養豊かな彼女は、流暢な英語で自己紹介してくれたから、ぼくらは友達になっていた。
大学の食堂やヨットクラブで待ち合わせて、シルビアと話し込んだ。彼女はチリの政治や歴史、名物の食べ物や習慣を教えてくれる。
ぼくは日本の町の様子、航海中に体験した嵐や凪、海鳥や魚のことを話してあげる。町にいてはなかなか分からない、大切な何かを探していることも。地球の裏の二万キロも離れた極東の国に、彼女は瞳を輝かせてあこがれた。
独身のシルビアは、郊外の借家に住んでいるらしい。ある夕方、彼女に連れられて訪ねてみると、部屋の床にはアンデスに棲むラクダの一種、ビクーニャの毛皮が敷かれていた。壁ぎわの棚には、銅製の壺や細工物が並んでいる。
そういえば、チリは有名な銅の産地。ここアタカマ砂漠には、世界最大の露天掘り銅山があるという。
小奇麗な室内は、床と壁を見る限り、特に風変わりでもないけれど、勧められてイスに腰掛けたとき、上を向いて驚いた。草の茎で編んだような天井は、隙間だらけで夜空が見える。
暑い砂漠の町では風通しのよい屋根が普通と、彼女は真顔で説明するけれど、年間降水量〇・八ミリというこの町にも、たまには本格的な雨が降るらしい。そのときは家中が濡れて、さんざんな目にあうという。
東洋の物を何でも珍しがるシルビアのために、ぼくは日本の夕食を作ってあげた。彼女のキッチンを借りて飯を炊き、[青海]から持参した寿司の素を混ぜ合わせると、ひき肉の醤油炒めや錦糸卵も作り、とっておきの紅ショウガや海苔と盛りつけた。
シルビアは棚からハシを取ってきて、器用に食べてみせる。東洋のハシを使えるだけで驚きなのに、自分用まで持っている。
「チャイニーズ・レストランに行ったとき、黙って持ってきたの」
あっけにとられたぼくを見て、彼女は笑う。
食事が終わって、夜もふけると、シルビアは部屋のピアノに手をのせて、ぼくのために曲を弾く。上体をゆっくり動かしながら目を軽く閉じ、繊細な白い指が鍵盤を走る。
「わたし、今夜はとても寂しいの」
(続く)