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-- これは実話です --
第2話  炸裂する波頭
咆える40度と呼ばれる嵐の海で、<青海>は次々と崩れ波に襲われた。
big wave 大波

生涯という荒海を渡る間には、思わぬ事故や不運、致命的な病気の宣告、ときには大地震などの災害に遭い、「まさか自分が」と、信じられない気持ちになることがあるだろう。ぼくにとって、日本を出て5年目の事故が、その一つに違いなかった。


南極大陸を目指す〈青海〉は、南米アルゼンチンのブエノスアイレスを後にして、南大西洋を南下していた。

ある日の夕暮れどき、風の音が急に強まると、黒い海面に立つ波も、どんどん高さを増してきた。ついには、波頭が大きく巻き込むように崩れ始め、次々と〈青海〉にかぶさった。これ以上、海が荒れないでほしい。そう祈りながらキャビンに入り、床にカッパと長靴を脱ぎ捨てて、大揺れのバースに横たわる。

夜半過ぎ、巨大なガラスを割るような音響が、暗闇に鳴り渡った。同時に波の衝撃が、体を宙に投げ飛ばす。急いでスイッチボードを手探りし、明かりをつけたとき、ぼくは上下の感覚を取り戻すと、事態を一瞬に理解した。

大波で転覆した〈青海〉は、バラストの復原作用で、元の姿勢に起きていた。でも、それまで矢のように駆けていた船体は止まり、激しくローリングしている。

「ということは……まさか、そんなことが起きてたまるか」急いでスライドハッチを開き、握ったライトを頭上に向ける。

マストがない。ついにマストが折れた。決して起きてはならないことが現実になった。自分だけは、そんな初心者でもバカ者でもないと、いつも信じていたのに。

これで、すべての夢が終わる。南極へ行くため、アルゼンチンで頑張った資金稼ぎと1年半の準備作業は、何のためだったのか。全身の力が抜けていく。

南極まで地図

だが、初めて聞く鈍い音、波で揺れる〈青海〉を急に止める衝撃は何だろう?

スライドハッチから身を乗り出して、横の海面にライトを向けると、折れて水没したマストが、ステイのワイヤで船体とつながったまま、波の動きに合わせて船体を打っている。このままでは穴が開く。ぼくはライフハーネスを身に着けて、しぶきの飛び交う暗闇に歩み出た。

デッキ上に十数本も取り付けた、命綱用アイ付き特製ハンドレール。両手でそれらを交互につかみながら、大揺れのデッキを這うように進んでいく。ヘッドランプに照らされた、幅2mほどの〈青海〉の上が、ぼくの命の助かる世界。頭上に次々と崩れる波が、その狭い実在の世界から、得体の知れない暗黒に、ぼくを押し流そうとする。命綱のフックをアイに掛け替えるとき、もう一方の手を誤って放せば、次の瞬間、永遠に続くかもしれない闇の世界に落ちるのだ。

ポケットからプライヤーを出すと、ターンバックルの割りピンを引き抜き、マストのワイヤを1本1本、船体から外していく。だが、合計7本のうち、フォアステイだけは残した。マストの残骸は水中に吊り下がり、船体を安定させるシーアンカーの役目をして、波の直撃から〈青海〉を守ってくれるだろう。

激しい嵐が収まり、乱立する大波の裏に隠れていた水平線が再び現れ、役立つか分からないほど短い応急マストを立て、陸に戻り始めたのは、それから3日後のことだった。


三十代前半のぼくにとって、この事故は人生最大の衝撃だった。「自分は大丈夫」という確信が、単なる思い込みに過ぎないと、初めて体で知った出来事だった。
                         
Critical Advice to Sailors
安全のため第一に留意すべきは、波の高低ではない。密度が空気(風)の800倍を超す水(波)の破壊力である。風に吹かれる体験は日常的だが、水に打たれることは稀であり、我々は水の威力を実感していない。それゆえの油断と無防備が、海では致命的な事故の要因となる。



 解説



月刊<舵>2010年4月号(3月5日発売)より。


2話目は、南大西洋でのマスト損失事故です。

「炸裂する波頭」という題は、すこし大げさかなとも思いましたが、よく考えると、実に的確な気もするのです。このように波頭の崩れる写真は、シャッターチャンスをつかむのが難しく、カメラを構えて狙っていても、なかなか思い通りに撮れません。波頭が崩れるのは一瞬で、次の瞬間、全身に波をかぶることも少なくありません。崩れ波に襲われた瞬間の記憶は、突然に波頭が炸裂した映像に近いかもしれません。


掲載した波の写真、他にも候補があったのです。同様のサイズで載せてみます。

大波比較

さて、どちらが迫力ある波に見えるでしょう? どちらが怖そうに見えますか?
私にとっては、右のほうがはるかに凄く見えるのです。
右の波頭は、波の尾根を一つ越した向こうで、かなりの距離がある点に注意してください。また、斜面に起きた白波や頂上の崩れた部分をよく見ると、かなりの大波であることが推測できます。左の見かけ倒しの波に比べ、はるかに大きく、底力を感じさせる波なのです。

でも、残念ながら、一般の人々には分かりにくいという理由で、右の写真はボツになりました。本当に凄いものは埋もれ、たいしたことのないもの、一般受けしやすいものが評価される世の中かもしれません。

このような大波を見たのは、実は本文に出てくる転覆当時だけではありません。それより二年ほど前、同海域を通った際も、同様の波に出遭っています。そして実際、<青海>は二度も転覆したのです。マストは折らなかったものの、上陸用折りたたみボート等を失い、船体にも大きな被害を受けました。

それにしても、どうして<青海>は南半球でそれほど転覆したのでしょう。南半球の海はどうしてそれほど荒れるのでしょう。それは、南半球と北半球の海に、決定的な違いがあるからです。


 南米南端に位置するホーン岬は、大航海時代の昔から、海の最大の難所として船乗りに恐れられてきたと言われます。どうしてでしょう? 

様々な要因がありますが、その一つは南緯56度という高緯度に位置することです。アフリカ南端は南緯約35度、オーストラリア南端のタスマニアでも約44度ですから、ホーン岬がどれほど高緯度か分かるでしょう。

一般的に、海は高緯度ほど荒海になります。赤道に近いルートを走るのに比べ、高緯度ほど厳しくつらい航海になるのは確かでしょう。ですから、大洋横断ルートは、なるべく低緯度を選択したいものです。

ところで、大航海時代、ヨーロッパの帆船乗り達が、ホーン岬をそれほど恐れたのはなぜでしょう? 高緯度だからですか? イギリス南端は北緯約50度、北端では北緯60度近いのに、南緯56度のホーン岬周辺の海を、なぜそれほど恐れたのでしょう?

それは、南半球と北半球の海に、決定的な違いがあるからです。



その一つは、海に対する陸地の比率です。北半球では約4割が陸ですが、南半球には約2割しか陸地がありません。陸は風の抵抗となり、うねりや波の成長を防ぐ効果がありますが、延々と海が続く南半球では、風もうねりもそれほど弱まるチャンスがありません。

もう一つは、南極の寒さです。でも、いったい、寒さと海の荒れに、何の関係があるのでしょう?

風が吹く原因の一つは、二地点間の温度差(それに基づく気圧差)です。たとえば北半球を吹く風の原動力は、赤道と北極の温度差でしょう。



ところで、夏は一般的に風が弱く、海が穏やかなのに、冬は風が強く、海が大荒れなのはなぜでしょう?

それは、赤道付近の温度は一年中一定なのに、極地の温度は夏と冬で大きく違うからです。夏は赤道と極地の温度差が少ないため風が弱く、冬は温度差が大きいので風が強いというわけです。

さあ、いよいよ本題です。北半球の高緯度から来た航海者が、南半球の高緯度をそれほど恐れた理由を考えるとき、注目すべきは両極点の温度です。夏の南極点の-30度近い気温が、冬の北極点の気温に匹敵するという事実です。つまり、夏の南極点と赤道の温度差、そして冬の北極点と赤道の温度差、これらがほぼ等しいということです。

その結果、(風の強さが温度差によって決まるとすれば)南半球の夏の平均風力は北半球の冬の平均風力に近くなるでしょう。南半球では、風の穏やかな夏でさえ北半球の冬並の強風が吹くということです。もちろん、他の季節ではさらに風が強く、海が大荒れというわけです。

ホーン岬周辺の海が恐れられている理由には、海流や浅い海底によって起きる急峻な三角波等もありますが、それらについては後述の機会があるかもしれません。

(以上は両半球の平均風速についての一考察であり、必ずしも実際と一致するものではありません。ただ、南半球の海の怖さをお伝えするための一例として、書かせていただきました)




ところで、ヨットはなぜ転覆するのでしょう? どういうときに転覆や横倒しになるのでしょう?



たとえば上図の様に極端な高波の場合、確かに転覆するでしょう。でも、かなり低い波でも、ヨットは簡単に横転したり転覆するのです。

その一例は、崩れ波を横腹に受けた場合です。



波が崩れ、水流となって海面(うねりの斜面)を走り、船の横腹を打つとき、軽くて底の浅い船ならば、船体は水面をそのまま流されて平行移動するだけかもしれません。しかし、ヨットのように船底からバラストが水中に突き出ていると、それがひっかかって抵抗となり、船体を回転させることになります。

舵誌をお読みになった方は、「Critical Advice for Sailors」に私が書いた「留意すべきは波の高低ではない。空気(風)の800倍を超す水(波)の破壊力である」という一文を思い出していただきたいのです。崩れ波の威力は我々の想像をはるかに超えており、低い波と思って油断していると、あなたのヨットは簡単に転覆してしまいます。



ですから、波が崩れているとき、波に横腹を向けること、つまり帆に横風を受けて走るのは、きわめて危険な行為です。えっ? 「そんなバカなことはしない」ですって?

いやいや、やらないつもりでも、やってしまうのです。
それは、「ブローチング」という言葉で知られるように、追手で走っているとき、ウェザーヘルムが強まったり船体を追い越す波に船尾が運ばれ、船体が横向きになることがあるからです。

特にウインドベーンを使い、自動で舵をとるときは要注意です。というのも、風向きの変化でコース変化を感知するウインドベーン装置では、誤動作を避けられないからです。

実は、ウインドベーンには、船尾が横流れしたとき、見かけの風向変化によってpositive feedbackが働くという、致命的な原理的欠陥があるのです。 (追手以外では問題ありません。追手走行時は、相対風速が弱まること、さらに、そのため船尾の横流れによる見かけの風向変化が大きいことも、誤動作の原因の一つです) 

要するに、追手で走っているとき、船体が横向きになりかけても、それを修正するどころか、その動きを助長するように、一瞬舵を切ってしまうのです。コンパスセンサーを持つ電気式オートパイロットでは、このような原理的欠陥はありません。 (追い風時のpositive feedbackによる誤動作を防ぐには、ウインドベーンを船首に取りつければよいのですが、これは実用的でないばかりか、向かい風走行時に同様の誤動作を招くことになります。同じ理由から、電気式オートパイロットにwindvaneセンサーを付けて使う場合の最適位置は、キールのセンター付近です。)





***南極に向かった経緯、転覆後の様子、再起等々については、航海記・光の国へをご覧ください。



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