-- これは実話です --
第4話  初めて知った海・太平洋

まるで山地に踏み入ったように、波の山々が盛り上がる海原

big wave 大波

他人の痛みや境遇、食べたことのない料理の味、異国の風景や習慣など、「それぐらい知っている」「だいたい想像がつく」と思っていても、実際に体験してみると、何も知らなかったことに気づいて唖然とすることがある。

ぼくが初めて太平洋に出たときが、そうだった。


世界一周の第一歩、太平洋横断を始めて数日後、ぼくはバースの中で、のびていた。

頭はズキズキ、目はグルグル回り、食事もできずに一日が過ぎていく。日本で仲間と乗っていたときは、だれよりも船酔いに強いと、ぼくは評判だったのに。

出発前、航海記を何冊も読み、大洋航海経験者に会って話を聞き、海の厳しさは知っていた。波が大きいことも理解していた。決して楽な旅ではないとも、分かっていた。が、実際に体で知る海は、それとは比較にならない存在だった。

自分には、海から陸に生きて帰るのに必要な、能力と技術があるだろうか?  広い太平洋を本当に横断できるのか? すべてが不安で、分からなかった。

だが、船尾では自作のペンジュラム式ウインドベーン装置が舵をとり、<青海>はたくましく、波を蹴って進んでいる。ヨットは強いのに、ぼくはあまりに弱すぎる。

大平洋コース

単独航海のため、睡眠中に船と衝突しないよう、交通量の多い大圏航路を避けて、北緯38度線上を真東に進み、北米サンフランシスコを目指していた。さらに南のコースをとれば、海が穏やかなのと引き替えに、航海距離は増加する。

ぼくは船酔いで衰弱した体を起こすと、揺れる窓から外を眺めた。いたるところに、波頭が本物の山々のように盛り上がり、まるで山脈の中にいるようだ。

大波がデッキに崩れるたび、スライドハッチの左右の隙間から、海水がキャビンに吹き出てくる。炊事のためジンバルの灯油バーナーに鍋をのせ、わずか五分の一まで水を入れても、たちまち揺れてこぼれてしまうのだ。

ふと、キャビンの数か所につけた自動車用コンパスに目を向けると、<青海>はなぜか数十度もコースを外れていた。

ぼくは急いでスライドハッチを開けると、「落ちるなよ、落ちたら死ぬぞ」と自分自身に叫びながら、しぶきの降るデッキに歩み出た。

舵の故障に備え、予備ラダーは3枚用意し、ウィンド・ヴェインの風力版と水中翼も充分なスペアを持っている。が、船尾のウィンド・ヴェインを調べてみると、安全ジョイントが壊れていた。波がスターンをたたくたび、激しいブローチングを繰り返し、水流が音をたてて船尾を横切っている。これにやられたのに違いない。

揺れるキャビンで重い万力を取り出すと、ステンレスパイプを金ノコで切断し、キサゲ工具と平ヤスリで強めのジョイントを作って取りつけた。

それにしても、これまで日曜や休日に走った海は、本物の海とは関係ない場所だったのか? 陸の近くは、海ではなくて磯だったのか? ぼくはやはり、海を少しも知っていなかった。


自分の体で初めて知る海は、つらくて、苦しく、きつかった。でも、それがなければ、難所といわれるホーン岬の上陸も、南極航海もあり得なかった。太平洋横断は、<青海>とぼくの弱点を見つけるための試運転であり、その後の勇気の源泉だったのかもしれない。



Critical Advice to Sailors
故障により安全が脅かされ、あるいは航行に支障が出る装備品は、充分な予備を持つか、修理の技術や道具を整えておくべきである。そのような準備と心構えがないまま、装備品(エンジン、電子機器等を含む)に頼る行為は、非常時に致命的な結末を招くことがある。



 解説


 月刊<舵>2010年6月号より。


第4話目は、いよいよ太平洋横断の航海です。

「いよいよ」と、あえて表現したのは、それなりの理由があるためです。

私が日本を出て、太平洋を横断し、北米に着き、
さらに南下してチリ多島海を通り、
ホーン岬から大西洋に入り、アルゼンチンに着き、
そこから南極に行き、大西洋を渡ってアフリカに着き、
後に長い長いインド洋を渡り、
オーストライアン・バイト(Great Australian Bight)も渡り、
シドニーから太平洋を縦断して日本に帰った

――――と長々説明しても、一般の人やヨット乗りに分かってもらえるのは、せいぜい太平洋横断くらいかもしれません。

南極航海も、チリ多島海も、なんのことかよく分からないけれど、太平洋横断なら分かる気がする。というのが、実情だろうと思うのです。

世界一周航海の体験者から見れば、もしかすると太平洋横断は初心者コース、腕試しの航海かもしれません。

実際、私の場合で恐縮ですが、難易度に点をつけるとすれば、太平洋横断が1点、世界一周が3点、チリ多島海は5点、南極は10点、という感じでした。もちろん、ヨットの大きさや装備、航海情報や前例の有無、時代や運や資金の額や友人の差違により、難易度は大きく違ってきます。あくまでも私の場合に限った点数です。

とはいえ、これは日本に帰ってからの採点であり、実際に太平洋横断中は、間違いなく10点と感じていたのです。

では、いったい何が大変だったのでしょう?

 六分儀でヨットの位置を求めることでしょうか?
 嵐のとき、帆を縮める作業でしょうか?
 波で大揺れの船内で、食事を作ることでしょうか?
 孤独との闘いでしょうか?

本当につらかったのは、私の場合、船酔と嵐に対する恐怖感でした。



日本でヨットに乗っていたとき、船酔などしませんでした。いや、本当は少し船酔したのですが、わざと平気な顔をしていたのです。そして実際、ヨット仲間の友人たちと比べれば、確かに船酔には強いほうでした。

ところがどうでしょう。陸を離れて太平洋に出ると、船酔で寝込んでばかりです。風が強まって帆が破れそうになっても、帆を縮める気力もないし、もちろん食事の用意をする元気もありません。こんな事ではだめだと思うのですが、どうしても気力が湧いてこないのです。

そして、嵐が怖くてたまりませんでした。まるで嵐の影におびえて暮らすようでした。いつ、次の嵐が来るのか、そればかりを気にしていたのです。

こんな事で、本当に太平洋を渡ることができるのでしょうか? 自分には、その能力があるのでしょうか? 先は全く見えませんでした。


太平洋横断について、一般の人からよく質問されるのは、食べ物についてです。
「冷蔵庫はあるんですか?」
小さな貧乏ヨットに、あるわけないでしょう。だいいち、電気どうすんですか。
「じぁあ、食品の保存は? 宇宙食みたいなの食べるんですか?」なんて聞かれることもあります。

でも、スーパーに行けば、1年以上も保存できる便利な食品がいくらでもあります。やはり代表的なものといえば、缶詰でしょうか。レトルト食品も手軽に入手できます。そして経済的に余裕のある人なら、登山用品店などにフリーズドライの食品も並んでいます。
海外では、日本であまり見かけない野菜の缶詰なんかもありました。らっきょうとか椎茸とか、たしかタクアンや奈良漬けなんかもあった気がします。



でも、これって何か変ですよね。こんな現代的なものを食べないと、大海原を渡れないのでしょうか?

いったい、昔の人達は、何を食べて航海していたのでしょう?

 冷蔵庫に入れない卵が、どれくらい持つか知っていますか?
 ジャガイモやキャベツはどうでしょう。
 果物は長持ちするのでしょうか?
 肉はどうして保存するのでしょう?

こんなことは、数万年前の原始人だって、おそらく知っていたことです。
なのに、我々の多くは、ほとんど知らない。
ただ賞味期限のラベルを見ている。
自分の感覚や判断を頼らずに、与えられた情報の中で生きています。



タマネギは、長持ちの代表選手です。網袋やカゴに入れ、風通しのよい場所に保存すると、数か月以上も持ちました。ただし、乾燥状態のよい物を選ぶこと、また国によっては長持ちしない品種があるようなので、注意が必要です。

オレンジも、タマネギと同様、驚くほど長持ちしましたが、これまた品種によっては要注意です。

ニンジンは、長持ち野菜の仲間ですが、実はクセモノです。何年も航海を続ける間、色々と試行錯誤を重ねたのですが、風通しのよい場所に置くより、なんとポリ袋に密封した方が長持ちしたのです。これはアフリカのマーケットで、黒人のオバサンに教えてもらいました。初めは半信半疑だったのですが、実際に試してみると、実に効果的なのです。密閉しなかったニンジンは黒く変質しても、ポリ袋に入れたニンジンは少しフニャフニャにはなりましたが、まだまだ大丈夫でした。新聞紙を一緒に入れておくとよいようです。

それなら、卵はどうでしょう。カラのまわりにワセリンを塗り、呼吸を止めると、長持ちすると言われています。実際、室温20-25度程度で、3週間ほどは持ちました。残念ながら、冷蔵庫で卵がどれほど持つか、試したことはないのですが。
 
また、南極で会ったフランス人から習ったのですが、熱湯に5秒間だけ漬ける方法もあります。カラの内側に薄い膜ができ、これまた呼吸を止めるらしいのです。 やってみましたが、ワセリンに比べ、どれほど効果的かは分かりませんでした

(航海中の食品保存法について、よい方法や体験談をお持ちの方は、ぜひお教えください。御連絡をお待ちします。)



ところで、太平洋横断といっても、どんなコースを進むのでしょう? そして夏と冬では、どちらがよいのでしょう? それとも、そんなことは、どうでもよいのでしょうか?



この図は、季節による海の荒れ方の目安を示したものです。
詳しく言うと、太平洋を東進する際、波浪により船舶の速度を下げて航行する場合の率です。(Ocean passag for the world掲載資料より作成)
もちろん、東進、西進、南進、北進、それぞれで結果は違ってきます。今回は日本からの太平洋横断ですから、東進の場合に当たりますね。

これは大型船舶用の資料ですから、苦手とする波やうねりの波長が小型ヨットとは異なるため、そのまま当てはめるわけにはいきません。波長の短い波、たとえば波長10メートルの波は、船長10メートルの小型ットにとっては問題ですが、船長100メートルの大型船舶にとっては、たいしたことではないでしょう。 逆に、波長100メートルの波は、船長10メートルのヨットにとっては、船体がゆっくりと上下するだけですが、船長100メートルの大型船にとっては問題な場合があるでしょう。

とはいえ、小型ヨット用の資料はありませんし、海の荒れ方の一応の目安となりますから、この図で考えてみることにしましょう。

まず気がつくのは、夏と冬でかなり状況が違うことです。図上で色が濃いほど、 海が荒れるというわけですから、航海するなら夏がよいように思えます。でも、あくまでこれは平均値のデータです。夏には台風のリスクがあることを考慮しなくてはなりません。

また、図を見ると冬の航海は大変そうですが、南の方を通ればリスクはかなり減りそうです。ただ、風向を考慮する必要があります。




この図は、<青海>の太平洋横断中、約2か月間の位置を、日ごとにプロットしたものです。(出発後数日間のデータが抜けています)

黄白色の直線は大圏航路で、およそ8000kmあります。赤点の列が実際のコースで、ぼぼ北緯38度線上ですから、遠回りしていますね。 北の大圏航路を通ると近道ですが、嵐の率も増えそうなので、このコースを妥協点としたわけです。

赤丸の間隔を見ると、接近している時もあれば、離れているときもありますね。向かい風だったり、たまには凪で進まない日もあれば、追い風に押されて驚くほど走った日もあります。太平洋横断中、約2か月間の平均は、1日75マイル、約140キロでした。もちろん、これは24ftの<青海>の場合です。



この図は、夏(7月)の風向です。海上保安庁の大洋航路誌付図より作成しました。これを見ながら、追い風になるようにコースを選べばいいですね。でも、あくまで平均の風向ですから、いつもこの通り吹いているわけではありません。特に偏西風帯では、風は日々刻々と変化していきます。また、年によっては、これとは大きく違うこともあるでしょう。あくまで平均ですが、コース選びには参考になるかもしれません。

とはいえ、平均寿命を信じて人生計画を立てても、早く死んだり長生きしたり、平均なんて個々のケースでは、もしかすると無意味かもしれませんね。


***大平洋横断の詳しい様子は、aomi-storyでもお読みになれます。

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