-- これは実話です --
16話  平穏な海の落とし穴

マゼラン海峡から10マイルほど南、モーリス湾付近の朝

big wave 大波

順調に物事が進み、しばらく平穏な日々が続くと、危機意識が薄れたまま平気で前進を続けることがある。烈風のマゼラン海峡を脱した<青海>が、そうだった。


南米南端ホーン岬を目指す<青海>は、日本の本州ほど続くチリ多島海を約3か月も南下して、マゼラン海峡の南に達していた。

南緯54度のモーリス湾で一夜の休息をとった後、<青海>は25マイル離れた次の停泊地に向けて出発する。

帆が役立たない微風の中、3.5馬力の小さなディーゼルエンジンを軽快に鳴らし、波のない平穏な水道を駆けていく。

空からは陽光が静かに降りそそぎ、周囲にそびえる青い山々の壮大な景色は素晴らしく、高い頂上には氷河が光っていた。つい先日まで2か月ほども連続した、雨に濡れた不気味な山々の眺めと強風は、遠い昔の夢のようだった。

出発から5時間後、次の停泊予定地、ソフィア湾の横に<青海>は達していた。が、南半球の太陽はまだ北天に輝いて、さらに20マイル先のニーマン湾まで行けそうだった。

いや、無理かな? ぎりぎりかな? 前進を強行して、途中で向かい風が吹いたり、潮流に押し戻されたりすれば、ニーマン湾に着く前に日が暮れる。闇で視界を失う前に、到着して停泊作業を終えないと、<青海>は流されて岩々に座礁するだろう。

そう思い悩んで決断を延ばす間にも、<青海>はコックバーン水道をどんどん西に駆けていく。そして気がついたとき、すでにソフィア湾は後ろに過ぎていた。

この調子なら、日暮れまでにニーマン湾に着くはずだ。と思う一方、心の底に不安を確かに覚えていた。

<青海>の行く手には、途中の岬や小島が予定通りに現れ、すべてが順調に過ぎていく。先日まで続いた強風の中の困難な航海、神経を張り詰めた日々、鋭い刃物を握り続けるような緊張感を、ぼくはほとんど忘れかけていた。

やがて前方の海面には、ニーマン湾の口が見えてきた。が、腕時計は、そろそろ午後7時。あたりはすでに薄暗い。―― 「しまった!」やはり思い通りには進んでいなかった。とんでもない失敗をしでかした。錨を打って陸の木にロープを張る前に闇が来る。

<青海>が湾内の停泊予定地付近に着いたとき、あたりはほとんど真っ暗で、周囲の状況ばかりか、デッキの上も見えず、自分の位置さえ全く分からなかった。

もはや錨を打つ場所の判断も、陸の木にロープを張る作業も不可能だ。このままでは風や潮に流される。どうしよう?

ふと耳を澄ますと、かすかに水の流れる音がする。海に小川が注いでいるのだ。「助かった!」 川口付近では海底に砂や泥が堆積し、錨の利きがよいはずだ。

測深器の表示に注意しながら、真っ暗闇で自分の位置も知れないまま、まるで灯台の明かりを目指すように、川音に向けて微速で前進を開始する。そして減少する水深が20mを切ったとき、CQRアンカーを闇の中に投下した。

ただちにエンジンで錨を引いて、利き具合を確かめる。が、錨は海底を滑るのだ。ぼくはヘッドランプの光を頼りに、錨のロープを100mまで伸ばしてみる。と、どうにか海底に食い込んだ。

しかし、ロープを陸の木まで張る作業は、真っ暗闇の中では不可能だった。錨が一つだけの振れ回し状態では、風向の変化で錨が外れ、<青海>は流されてしまうかもしれない。

やはりあのとき、最悪の場合を想定して前進をあきらめ、ソフィア湾に入るべきだった。海が穏やかで、あまりにも平穏な時間が続いたものだから……

Critical Advice to Sailors
風向や潮流の影響で、航海が予想外に長引き、到着が大幅に遅れる場合は少なくない。熟知した港を除いて危険な夜間入港を避けるため、最悪の風向や潮流を想定し、航程を欲張らず、十分に時間的余裕のある航海計画を立てねばならない。



 解説


月刊<舵>201106月号より。

16話目は、マゼラン海峡の南に位置する水道内の航海です。

 最初に、今回の場所を地図上で確認してみましょう。

cockburn strait

マゼラン海峡は、太平洋と大西洋をつなぐ通路ですが、南米大陸はここで終わり、その南側には大小無数の島々が、ホーン岬まで連なります。<青海>はマゼラン海峡からさらに南下して、それらの島々の海域に入って行きます。

上の左の拡大図で分かるように、最初に通ったのはマグダレナ水道と呼ばれる通路です。

マゼラン海峡からマグダレナ水道に入ってすぐの景色が、以下の写真です。この山は標高2234mのサルミエント山(Monte Sarmiento)で、その息を飲む美しさと、頂上の二つに分かれた形で有名です。かのチャールズ・ダーゥィンも、その美しさに魅了されたということです。

magdalena strait

水道内では天気がよく、海は穏やか、心地よい軽風が吹いていました。マゼラン海峡では烈風で難儀したのですが、まるで別世界にきたようでした。この穏やかな水道で、上の地図に示したモーリス湾に一泊したのです。

下の写真は、翌朝の出発時のものです。完全な無風でしたから、やむなくエンジンで進みます。まだ晴れていないモヤの一部には、朝日が金色に反射しています。

magdalena strait

さらに進むと、氷河に覆われた山々が見えてきました。まわりの景色は、すがすがしく、とても気持ちのよいものでした。多島海中部地方の不気味な岩々の景色とは大違いで、とても健康的だったのです。風は少しあるようですが、ウィンドベーンのセッティングを見ると、向かい風のようですね。



景色は素晴らしく、風は心地よく、あまりにも平穏な時間が続いていたのです。


そんな素晴らしい航海だったものですから、舵誌の本文にあるように、<青海>は予定のソフィア湾の前を調子に乗って素通りし、さらに遠いニーマン湾を目指すことにしたのです。夕暮れまでには、どうにか到着できると油断していたのです。あまりにも海が平穏だったものですから。

nieman map

ニーマン湾の入口は、上の右図で分かるように、進行方向に対して横に開いているため、近くに着くまでは見えません。ですから、その下(南側)にある島を目指して進んでいきます。左の図はニーマン湾付近の拡大図です。

南側の島を目指していた<青海>(上図の1番)は、やがて 湾の入口を目視します。そこから針路を変えて(2番)、湾の口に向けて進んでいきます。しかしこのとき、すでにあたりは暗くなりかけていたのです。

湾の入口を通り(3番)、湾内の島を通り過ぎたとき(4番)、あたりはもうほとんど闇に包まれていました。これでは錨を打つ位置を決めることも、陸からロープを張って停泊することもできません。

そこでどうしたかは、舵誌の本文に書いたとおりですが、本当に冷や汗をかく思いでした。

下の写真は、翌朝に撮影したものです。中央に<青海>が停泊しているのが分かるでしょうか。

殺伐とした岩山、異様な草木、不気味な雲、海面を吹く突風が立てる波紋。地の果てを思わせる荒涼とした景色に、何かを感じずにはいられませんでした。

nieman bay

その凄まじい雰囲気を少しでもお伝えしたいと思い、さらに大きな写真を下に載せました。左右に動かしてみてください。

nieman-bay big photo

  ↑ 上のスクロールバーを左右に動かしてご覧下さい。(ヨットに注目)


どうですか? 少しは雰囲気が伝わりましたか? 

こんな人里離れた寂しい場所に、たった一人でいたら、あなたは何を感じ、考えるでしょうか。



***チリ多島海航海の様子は、aomi-storyでもお読みになれます。

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