-- これは実話です --
23話  白銀のリング
big wave 大波
南極の火山島、デセプション島の内部。外洋のうねりから完全に守られ、湖のように静かな水面が続く。陸地は火山弾、火山礫、万年雪に覆われていた。降水日数は一年の8割ほどもあり、晴天はまれという。年平均気温マイナス3度前後。

目前に開いた断崖の切れ目は、ドーナツ状の島、デセプション島内部に続く入り口だ。

その左側の浅瀬には、座礁船が無惨な姿をさらしている。"Neptune's Bellows" (海神のフイゴ)と呼ばれる入り口の通過に失敗した船だ。

測深器の表示に注意を払い、浅瀬と突風と潮を警戒しながら、<青海>を島の内側に向かわせる。入り口の横には標高91メートルの崖が垂直に切り立ち、近づき過ぎないよう細心の注意が必要だ。が、大きすぎて距離感が全くつかめない。

恐る恐る島の内側に進んで行くと、目前には湖のように平らな水面が広がり、そのまわりを白銀の山々が囲んでいた。両眼に飛び込む雪景色は、絵葉書のようにきれいで、大きく、広かった。

それは現実感のない奇妙な体験だった。極限まで澄んだ冷気の中、数百メートル先の白い丘も、10キロ離れて輝く山々も、同様に鮮明だったから、すべてがベタリと平面に並び、紙に印刷した景色のように遠近感が少しもない。<青海>を取り巻く円筒形スクリーンに、雪景色の画像が投映されているようだ。

しかも、そのスクリーンまではどれほど遠くて近いのか、目を凝らしても見当すらつかなくて、注意しないと今にも船首がぶつかりそうで気が気でない。

恐ろしいほどの静けさだ。<青海>のエンジン音も、まわりを囲む雪山、光を反射し合うまぶしい雪の斜面に吸われていく。光が満ちあふれる直径約14キロの島の中、人間は自分ひとりきり。――妙に寂しく、怖く、不思議だった。

雪山の輝くリングの内部は、滑らかな青池のような水面で、船体はピクリとも揺れていない。<青海>は本当に進んでいるのか? 時間は止まっている心地がした。

いったい、このまぶしい巨大リングの内側に、時は存在するものか? 目の前に輝く壮大な山々と海の景色に、人類の歴史や時間はどれほどの意味があるのだろう。ぼくは何という時代の住人で、ここはどこ? 自分は何をやっている? めまいがしそうだった。これまで氷山の見張りで徹夜を続けたせいなのか。

リングの奥に向かう<青海>をぐるりと囲むのは、白と青が上下に触れた、雪山と海の境界線。その一箇所に、大きなオイルタンクと家のような平屋が見えている。古い捕鯨基地の跡だった。

輝く広大な雪景色の中、半世紀以上も昔の廃墟を目の当たりにして、過去の時代に迷い込んだような、ひょっとすると赤さびたオイルタンクの陰から昔の漁師が現れ、手を振りそうな、奇妙な心地を覚えていた。

あふれる光と静寂の中、前方の海岸線に目を凝らすと、もうもうと湯煙が立っている。浜に湧く温泉で卵をゆでたり、温かい海水で泳げることも、以前に海洋雑誌で読んでいた。

このカルデラ火山島の巨大リングの内側には、岬もあれば小さな湾もある。海図で決めた安全な入江に、<青海>は向かっているはずだ。なのに、行けど走れど目標地点は現れない。おかしい、火山灰に埋もれて消滅したのか? 

たび重なる噴火で、島の地形は大きく変化したようだ。実際、測深機の表示と海図の水深を比べると、十数メートル違う場所もある。もはや海図を信じて進めない。どうしよう。

連日の徹夜で、全身に強い眠気と疲労を覚えていた。一分でも早く安全な場所に着いて休息しなくては、いまに体力が尽き果てる。

海図上の目指す入江は、今も確かに存在しているのか? まわりの輝く景色は、間違いなく現実と言えるのか?

横の白い海岸線に双眼鏡を向けると、無残に折れ曲がった鉄骨のスクラップ── 噴火で破壊された気象観測基地の跡だった。

ふと振り向くと、いつのまにか島の口はどこかに消え、白銀のリングは完全に閉じていた。停泊地も出口も分からず、時の存在しない島の中を迷い歩いて……。


 解説


 月刊<舵>20124月号より。

23話目は、南極の有名な島、デセプション島です。

「ドーナツ状の島」「温泉」「捕鯨基地」「噴火」、おそらく南極で1番有名なこの島は、人を引きつける要素に満ちています。

まずは、位置を見てみましょう。
デセプション島の位置
南米アルゼンチンの首都、ブエノスアイレスを離れた<青海>は、およそ一か月かけて、南大西洋を南下します。最初の目的地は、南極大陸から突きだす南極半島のデセプション島です。

きわめて嵐の多い南大西洋の南部、南氷洋、ドレーク海峡をなんとか無事に渡りきり、やっと陸を目前にしたのですが、そこは通常の陸地や港と違い、安全な休息場所ではないかもしれないのです。

デセプション島の環境データを見てみましょう。
deception data
平均標高が300mもある険しい島です。島の外周は、崖が切り立つような景観で、上陸可能地点はなさそうです。

年間平均気温がマイナス3度。北海道中央部の旭川や、最北端の稚内の年平均気温がプラス6℃程度ですから、それより10℃近くも低いわけです。もちろん、誰も住んでいません。

 

年間降水日数は286日もあります。日本のそれが110日程度、1番多いと言われる富山県でさえ180日程度、雨で有名な屋久島でも約170日ですから、デセプション島がいかに天気の悪い場所か分かります。まさにチリ多島海の天気(クリックすると図が出ます)patagonia rain mapに匹敵するほどです。誌上掲載写真のような晴天に恵まれることは、きわめてまれのようです。

平均風速は7.7m/secとなっていますが、これは風力5に近い風力4です。風力階級表の風力4を見ると、「砂ほこりがたち、紙片が舞う。小枝が動く」とあります。決して、弱い風ではありません。しかし、注意しなくてはならないのは、これが島の内側、標高8mに於ける観測値であることです。島の形から分かるように、島の内側は山々にぐるりと取り巻かれ、強風から守られているはずです。にもかかわらず、これだけ吹くということは、島の外側ではどれほど厳しい風が吹き荒れ、そして小さなヨットがそれに耐えられものか、想像もつかないことでした。

deception ialand
これがデセプション島の航空写真です。地図で見るのと違い、殺伐として、寒そうで、厳しく、その反面、何か強い魅力に満ちています。

島の手前が切れていますね。<青海>はここから島の内側に入っていきます。無事に切れ目を通過出来るでしょうか? そして島の内側には何が待っているのでしょう?


米国海軍発行の南極水路誌には、次のような記述があります。
「通路が見つかるまで、島から十分に離れて周囲を回れ。」

この写真は、浅瀬を警戒しながら、<青海>が島の周囲を回り、入口を探しているときのものです。
deception island, searching the entrance
本当に入口があるかどうか、不安でたまりませんでした。それはやはり岩と雪の塊で、もしかすると切れ目は現れないかもしれないと、心配だったのです。

幸いにも晴天に恵まれて、雪山はまぶしく、海は青く光っています。こんな景色の中をセーリングしていることが、まるで夢を見ているように感じられたのです。来てよかった、でも、まだまだ夢はほんの始まりに違いありませんでした。

以下の図と写真は、入口付近のものです。左の図の入口付近を拡大したのが、中央の図です。 陸地は白、海は青、浅瀬は薄緑に塗ってあります。これを見て分かるように、入口の真ん中には浅瀬がありますね。これはRavin rockと呼ばれる水中の岩で、存在するのに見えず、正確な位置が分かりません。また、その下側にある赤いマーク、これは難破船で浅瀬に乗り上げています。<青海>は無事に入口通過できるでしょうか?

デセプション島 deceptioni  island
右の写真は、入口の北側、高さ100mほども切り立つ断崖で(300ftとも400ftとも記載あり)、その右側には一枚岩が見えています。真ん中の図で、矢印の根元、小さな白丸に相当するものです。実はこの断崖と一枚岩が、重要な役割を果たすのです。

米国水路誌の続きを見てみましょう。
「入口の一枚岩に50~100mまで接近した後、北東(北西の間違いか?)の崖沿いに100m離れて進め。その崖は垂直に120m切り立ち、実際よりあまりにも近く見えるので、注意が必要である。」

入口の真ん中にある浅瀬に乗り上げないためには、北側の崖の手前を進むことが必要です。しかし、あまり近寄ると、今度は崖の前にある浅瀬に座礁するかもしれません。ですから、崖から100m離れて通れというのです。

しかし、距離の判断を誤るため、注意しなくてはならないともいうのです。<青海>は一枚岩の前を通過後、恐る恐る断崖の前を進みます。が、やはりそうでした。岩壁までの距離が全く分かりません。今にもぶつかりそうなほど近くを通っているように見えるのですが、測深器の表示から推測すると、まだまだ近づく必要がありそうでした。例えば建物や、人影等々、大きさの分かるものが何かあれば、距離は推測できるのですが、岩の壁では全く分かりません。岩の模様は確かに見えても、その大きさがどうなのかは見当もつかないからでした。

やがて<青海>は無事に入口を通過しますが、目の前には青池のように平らな水面が広がりました。ブエノスアイレスを出て以来、一か月も海のうねりに揺られ続けてきましたが、それが全くありません。船体はピクリとも動かず、まるで停止しているようでした。それは、あたかも時間が止まったような、違う世界に迷い込んだような、奇妙な体験でもありました。

リングの奥を目指す<青海>の横には、捕鯨基地の跡が見えています。
whalers bay
写真右手には大きなタンクが立ち並び、左手には工場のような建物も見えています。その前にオレンジ色の物体が横たわっていますが、飛行機の残骸のようです。

1906年、ノルウェーとチリの捕鯨会社によって設けられたこの基地も、捕鯨母船の発達や、鯨油価格の暴落等により、1931年に閉鎖されたということです。ここには墓地もあり、45人が埋められているそうです。

現在、島に人間は皆無ですし、廃墟の存在が、景色をさらに寂しいものに感じさせています。なぜか違う時代に踏み込んだような、不思議な気持ちになったのです。



(続くかな?)


このページの白い背景は、南極大陸の雪面写真から作成しました。

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