-- これは実話です --
26話  幻のドーム
big wave 大波
曇り空の下に並ぶメルキョー群島。島々は厚い氷に覆われ、ドーム状に見える。氷は周期的に海に崩落して無数の浮き氷となり、しばしば小型船の航行を妨げる。海面と島の境界線付近には、岩が黒く露出しており、ドーム状氷山との区別ができる。

やはり思い通りには進まなかった。

意外な潮に押し戻され、2日がかりの航海は大幅に遅れていた。このままでは到着前に夜の暗闇が訪れる。

無風の海をエンジンで急ぐ<青海>の左手には、こうこうと輝く光の帯が続いていた。垂れ込めた雲の底と水平線に挟まれた横長いスリット状の空間に、氷に包まれた標高2000メートルを超す島の麓(ふもと)だけが姿を現して、まぶしい黄金の帯に見えるのだ。

白い氷の斜面が、なぜあれほど金色に光るのか。太陽は厚雲の上なのに、あの光はどこからくるのだろう。  

島々が無音で輝く無風の海に、昼の時刻が近づくと、頬に横風が触れてきた。<青海>はマストの前後に大きく帆を揚げて、船足を愉快なほど増していく。  

この調子、この風なら、夕方には停泊予定地に着くだろう。闇の中の到着を恐れていたのがウソのように思われて、ぼくは笑顔で口笛を吹きだした。  

でも、目指すメルキョー群島の島々が、水平線に白い固まり状に見えたとき、時計はすでに午後8時を過ぎていた。まもなく夜がきてしまう。  

<青海>の横の海面には、白いドームが並んでいる。ドーム状氷山の群れだろうか。たいして気にもかけずに前進する。走行距離の計算では、そろそろ到着してもよい時刻。なのに、行く手に見える白いメルキョー群島の固まりは、ほとんどサイズを増してこない。  

おかしい。<青海>は速度4ノットで確実に進んでいるはずだ。その証拠に左右の水面は、どんどん後ろに飛んでいく。群島に近づかないわけがない。つじつまの合わない奇妙な夢の中、夢と知りつつ、ひたすら走り続けているようだ。いや、もしかする昨夜のように。

と思う間に、横に浮かぶドーム状氷山の群れは背後に去り、空は暗みを帯びてきた。  

前方に見える白い島々の固まりは、本当にメルキョー群島だろうか。もしかすると、南極海に多発するという蜃気楼ではないのか。

ふと思いついて船室に下り、海図を詳しく調べたとき、ぞくりと背すじが凍りついた。

「あれは、さっき通り過ぎたのは、ドーム状氷山ではなくて、しまった!」  

即座に<青海>を停船させた。本物のメルキョー群島をドーム状氷山の群れと思い込み、横を素通りしていたのだ。  

日没前の到着は、もはや決定的に不可能だ。といって、夜間に群島に進入すれば、どんな危険が待っているか分からない。少なくとも闇の中で岩や氷に衝突するだろう。 

ということは、沖で朝を待つことになる。が、昨夜は島々と競争するように潮の中を駆けて、全身に強い疲労を覚えていた。もう一晩の徹夜は体力的に無理だった。  

船室に降り、加圧式石油コンロで湯を沸かすと、紅茶にブランデーと砂糖を山盛り入れて、2重底の保温カップで飲みながら、現在位置を海図に4B鉛筆で記入する。

窓の外では、しだいに空と海が暗さを増していく。が、幸いにも風は死んだように息を止め、波もない。あたりは水深400メートルほどで、錨は深くて打てないが、平らな水面に浮いたまま、仮眠をなんとかとれるだろう。  

海図上にディバイダーを当てると、周囲に並ぶ島々から最も離れた場所を探し出す。ここに行けば、たとえ潮や風に流されても、衝突まで1時間半の余裕があるはずだ。

紅茶で体が温まると、群島に背を向けてしばらく沖に移動し、闇の中でエンジンをきる。と同時に、すべての音が消え去って、<青海>は黒い鏡のような水面に、ぽつりと浮いて動かない。  

静かだ。何も聞こえない。音のない夢の中にいるような、現実感の希薄な静寂だった。かすかな耳鳴りと、まばたきの音以外は。  

2個の目覚まし時計を1時間後に合わせると、ぐっすり寝込まないよう、防寒服で着ぶくれの上半身だけをベッドにのせ、不自然な姿で仮眠をとる。  

が、寝たと思う間もなく、時計のベルに飛び起きて、まわりの黒い海面をチェックした。<青海>の右手には長さ約60キロのブラバント島が、幼いころの悪夢に何度も現れた、闇の中の薄白い人影のように、ぼおっと微弱な光を放つ。が、左手に見えるはずのメルキョー群島は、真っ暗闇に姿を消している。用心しないと、潮に流されて衝突する。  

1時間眠り、起きて、安全確認。それを数回も繰り返すと、南極の短い夜は明けた。ぼくは白い息を吐きながら、エンジンに始動ハンドルを差し込んで、力一杯に手回しする。
 
3.5馬力単気筒ディーゼルの規則正しい爆発音が、船体に心地よく響き始めると、舵を握りしめ、船首をいよいよメルキョー群島に向けていく。

氷に覆われた白い島々の間には、何が待っているのだろうか。  

あたりは、広大な曇り空の下の、白い朝だ。


 解説


 月刊<舵>20127月号より。

26話目は、コースを間違えた失敗談です。

前回のBluewaterStory25「白い幻影」で強い潮流を脱した<青海>は、メルキョー群島を目指して南極の島々の間を進んで行きます。

空には低い雲が暗く垂れ込めていました。しかし、水平線と海面の間の狭いスリット状の空間に、光の帯が輝いていたのです。

それはとても不思議な光景でした。島々のふもとの部分だけが横長に姿を見せ、光っているのは分かります。でも、あの光はどこから来るのでしょう? 厚い雲にさえぎられ、太陽の直射は届かないはずなのに、まぶしいほど金色に光っているのです。

南極を離れて数年後、やっとその理由に気がつきました。

氷に包まれた山肌の温度が気温より低い場合、辺りの空気は冷やされて下降気流が起きるはずです。するとその上空では高気圧と同様に雲が消え、太陽が差し込んでいるのではないでしょうか。海上は厚い雲に覆われていても、氷に包まれた陸地では空が晴れ、太陽が輝いているのかもしれません。
bright band of island


さて、メルキョー群島を目指して進む<青海>は、デセプション島を発って2日目の夕方には、ブラバント島とアンバース島の間に達しました。どちらも差し渡し数十キロの大きな島です。下の図の右側、A地点の辺りから、2つの島々の間に入っていきます。

to Melchior island
そろそろ夕暮れが迫っていました。でも、なんとか日没までにはメルキョー群島に着ける、いや、何としても着こうと思っていたのです。

<青海>の針路の右手には、ドーム状氷山のような物が見えましたが、それは背景のアンバース島と重なって見え、もしかするとアンバース島から突き出す半島かもしれないと思いました。

以前、BluewaterStory24「火の島」でもお伝えしましたが、南極では空気の透明度があまりに高く、遠近感を失う場合が少なくありません。そして実際、この時もそうだったのです。メルキョー群島まで数キロほどなのに、それらを15キロも離れたアンバース島の半島か付随する氷山と勘違いしていたのです。

<青海>は目の前にあるメルキョー群島を認識できないまま、前進を続けて行きます(B地点)。やがて失敗に気づくのですが、そのときはもう手遅れでした。すでに日は落ち、空は暗みを帯びていたのです。

ついに最悪の事態になりました。夜間、島々の間に進入するのは、どんな危険が待っているか分からず、無謀な行為に違いありません。といって、朝を待つのも簡単ではありません。デセプション島を出発してから徹夜の航海だったため、もう一晩の徹夜をする自信はありませんでした。

付近の海底は水深400mほどもあり、錨を打って停泊はできません。停泊しないまま<青海>の中で寝てしまえば、やがて流されて陸に衝突するかもしれません。

事態は絶望的に思えたのです。


下図から分かるように、メルキョー群島は二つの大きな島々に囲まれた水面にあります。左(西)の島がアンバース島、右(東)の島が ブラバント島と呼ばれ、どちらも差し渡し60kmから70kmほどの比較的大きな島です。図の右部分は海図の一部を拡大したもので、薄茶色が陸地、海が白、浅瀬が青緑で描かれています。海の部分の数字は水深(m)を表しています。

2つの島々に囲まれた水面は湾となり、風や波を防いでくれます。ただ、湾の北側は開いていますから、北風の嵐が吹いた場合は、波風がまともに湾内に打ち込むことになります。
dallmann bay
そして幸いにも、この日は北風ではありませんでした。湾内はほとんど無風で、波もなかったのです。これならば、<青海>を停船させたまま寝ていても、風に吹き流されて島々に座礁する心配はないでしょう。

ただ、気がかりなのは潮流でした。風がなくとも、潮の流れに乗って、<青海>は流されてしまうかもしれません。 海図に潮流の表記はなく、水路誌にも明確な記載は見当たりませんでした。

そこで、海図上で周囲の陸地から均一に離れた地点を探すと、無風の水面にエンジンを鳴らして、1時間ほど北に移動したのです。エンジンを止めると、舵誌の本文に書いたとおりの静寂が訪れました。この地点なら、周囲の危険から5マイルほど離れています。どの方向に流されようとも、おそらく一時間以上は島に衝突しないでしょう。
dallmann-bay
念のため、2個の目覚まし時計を1時間後に合わせると、デセプション島の出発以来40時間ぶりに仮眠を取ることにしたのです。

でも、眠って漂流している間に座礁しない保証はありませんでした。海図に記された島や暗礁の位置が間違っているかもしれないからです。

下の図は、<青海>に積んでいた2枚の海図の比較です。それぞれ左下にあるのがメルキョー群島です。その右上付近を<青海>は漂流したわけですが、島々の形や、青緑で表した浅瀬の形が少し違うことに気づくでしょう。さらに、図上に記された水深の数値もかなり違っているように感じます。海図の水深は、メートルばかりではなく、fathomという単位で表すこともありますが、両海図とも単位はメートルです。(1fathomは約1.8mで、1マイルの約千分の1。陸のマイルと海のマイルは違っています) また、図上には灯標の印がありますが、過去に一時的に設置されたものです。
dallman bay charts
では、水深を詳しく比較してみましょう。左図のa地点は、100mの等深線上にありますが、右図では622mという数字が近くにあります。また、左図のb地点には146mという表記がありますが、右図の該当地点付近は589mとなっています。さらに左図のC地点付近には200mの等深線が走っていますが、右図の同じ場所には508mの表記があります。南極の海は測量も満足にされておらず、情報も交錯しているのかもしれません。

こんなことでは、海図は信用できません。海図にない浅瀬が、どこに潜んでいるか分かりません。一番安全な場所に<青海>を移動したつもりですが、寝ている間に座礁しない保証はどこにもなかったのです。


このページの白い背景は、南極大陸の雪面写真から作成しました。

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