-- これは実話です --
30話  捕鯨船の置き土産
メルキョー群島
ドーム状の島を背景に停泊中。船首のロープは陸につながれ、船尾からは錨を打っている。水面に漂う氷は潮流と風に運ばれ、船体に当たって音を立てる。ときには海面を隙間もなく埋め、潮流や風が変化するまで艇を閉じ込めることもある。

メルキョー群島に着いて7日目。早朝5時の船室に、2個の目覚まし時計が鳴り渡った。辺りはまだ薄暗い。


窓の外では風がうなり、<青海>は湾に打ち込む波に揺れている。今日こそは出発と思ったが、遮る物のない湾の外では、強風が吹き荒れているに違いない。


「どうしよう?」

 

澄んだ桃色に輝く南極の朝空を見上げながら、迷っていた。


とりあえずエンジンの暖機運転を始めると、灯油バーナーで熱い紅茶を沸かし、山盛りの砂糖を入れて飲みながら、しばらく待機を続けていた。


が、風は少しも弱まりそうにない。やがて時計は午前9時を指した。もはや日没前に目的地に着くのは無理だった。


それにしても、南極の夏はもう終わったのか。一体いつまで待てば好天になるのか。このまま悪天候が続き、冬になってしまうのか。<青海>は動けないまま、氷に閉じ込められてしまうのか。


来年の春までの食糧はない。近くのアルゼンチン基地の廃嘘にも、食べられそうなものはなかった。どうすればよいのか。湾に打ち込む波に揺れる船室で悩んでいた。


その揺れ方が、急に変化した。驚いて窓の外を見ると、目前に岸が迫り、岩々に白波が砕けている。錨が滑ったのだ。このままでは衝突してしまう。ただちに岸を離れなくてはならない。


急いで防寒服と長靴を身につけると、ハッチを開き、うなりを上げる風の中に歩み出た。周囲の海面には、強風で一面に白波が立っている。


厚いゴム手袋をはめると、直径16ミリのナイロンロープに全身の力を込めて、船尾から打った2個の錨をデッキに引き上げる。が、船首から陸に張った長さ60mのロープを回収するためには、岸までボートを漕がなくてはならない。錨が滑るほど強い風の中、それは無理な作業に違いなかった。

 

どうすることも出来ず、船首から外したロープの端を海面に捨てると、その場を急いで離れることにした。


見上げる灰色空には、ときおり雲の切れ間が開き、太陽の光が差すこともあった。が、それもつかの間、再び雪混じりの風が吹きつけてくる。南極はもう冬に向かっているのだ。


メルキョー諸島の中を行ったり来たり、島々の間の細い水路に入ったり出たりしながら、より安全な停泊場所を探し回った。測深器で海底の地形を確かめ、凹凸の少ない場所に錨を打ってみる。

 

だが、エンジンの回転を上げ、船体で錨のロープを強く引いて確認すると、錨は海底を滑ってしまうのだ。


海面から垂直に切り立つ青い氷壁は、今にも崩れそうで怖く、近づく気にはなれなかった。白いドーム状の斜面に近づいて、再び錨を下ろしてみる。が、だめだ。エンジンで強く引くと、やはり滑ってしまうのだ。


それから何時間、停泊場所を求めて吹雪の中をさまよい歩き、錨の上げ下げを繰り返したことだろう。停泊できずに夜の闇が訪れれば、島々に囲まれた狭い海面で、必ず座礁するだろう。そして<青海>は身動きできないまま、南極に冬が訪れる。


どうしようもなく絶望を感じていると、近くの岩に巻きついた太いワイヤーが目に留まった。直径5センチ以上もあり、真っ赤に錆びている。数十年も昔、捕鯨船が残したものだろう。日没が迫る今、これを使う以外に助かる手段はない。


利かない錨を臨時に下ろして<青海>を泊めると、幸いにも弱まり始めた風の中、ゴムボートを漕いで岩に上がった。持参した細いワイヤーとシャックルを使い、船首から運んだロープの端を岩に巻かれた太いワイヤーに固定する。船尾からは、隣島の岩までロープを張っておく。これで、<青海>が流される不安はない。


1時間ほどで係留作業を終えたとき、寒さと疲労で精根尽き果て、虚脱状態の自分を感じていた。時計を見ると、すでに夕方5時だった。停泊場所を求め、強風と吹雪の中、島々の間を朝から7時間も迷い歩いたことになる。


日が沈むと、潮流に運ばれた無数の小さな氷片が、船体にゴチゴチと音を立ててぶつかった。夕食後、疲れて眠り、夜半にふと目覚めてハッチを開けると、すでに風は収まり、凍てつく空一面に大粒の星々が強くまたたいた。


「よし、明日こそは出発できそうだ!」



 解説


 月刊<舵>201211月号より。

30話目は、嵐の中で迷い歩いた話です。

**詳しい解説は、後日掲載予定です**


このページの白い背景は、南極大陸の雪面写真から作成しました。

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