-- これは実話です --
35話  悪夢の小湾(4)
dorian cove

晴天が訪れたドリアン湾。停泊中の<青海>と背後の山々は夕日を浴びて、黄金色に輝いている。あたかも夢を見ているような景色の中、人間は自分ひとりきりで奇妙だった。ときおりペンギンの声が響く以外に音はない。



 ドリアン湾に白い朝が来たとき、一夜の嵐は勢いを弱め、二隻のヨットが浮いた水面には、小波だけが立っていた。

湾口の浅瀬には、強風で流れ着いた氷山がいくつも座礁して、壮大な展覧会のように並んでいる。

巨大な鉄のツメで引っかいたような荒い縞模様の青氷山、茶色い平行線が地層のように走るピラミッド状氷山もある。これらの特徴的な姿は、氷山一つ一つの生い立ちを物語っているに違いない。もともと海だった彼らが、蒸発して天に昇り、雪となって地に降り積もり、やがて氷に変わり、氷河となって陸を下る旅の末、解けて再び海に還る、気の遠くなるほど長い生涯の物語を。

さらに風が落ちた昼過ぎ、<青海>から岸までゴムボートを漕ぐと、クジラの骨が散らばる岩浜をゴム長靴で踏みながら、万年雪の地面に上陸した。

湾の南岸には、英国南極調査所(British Antarctic Survey)の避難小屋が建っている。冷蔵室のような分厚いドアを開けて、恐る恐る中を見学することにした。

10坪もない無人の小屋には、テーブルとイス、調理台、登山用バーナー、氷を溶かして真水をつくる大きな金属容器が並び、足もとの棚を開けると食糧が詰まっていた。奥にはベッド、非常食と思われる大箱も置いてある。

室内はすべてが整理整頓され、気持ちよいほど手入れされていた。この避難小屋にたどり着いた遭難者たちも,安心して救助を待つことができるだろう。いや、むしろ自分が住みたいほどだ。少なくとも<青海>の船室より、はるかに快適な生活ができるだろう。

テーブルに置かれた訪問者名簿に、ヨットと自分の名、そして日付を記入すると、外に出た。

白一色の雪景色が、室内に慣れていた目を一瞬くらませた。足跡もつかないほど固い万年雪の地面には、3メートル近いウェッデル(Weddell)アザラシの体が一本、ゴロリと転がっている。ゆっくり歩いて近寄ると、寝たままの姿勢で頭を持ち上げ、ぼくを見た。両眼がパチリと円く、犬のようなヒゲの生えた顔つきは、中学時代の白木君にそっくりだ。

万年雪の上をさらに進み、白い斜面をしばらく登ると、小高い氷の尾根に出た。と同時に開けた前方の眺めは、薄墨色に冷えた海、寒々とした曇り空、それらの境目に浮く純白の氷山――すべてがクリーンで、色彩のない白黒写真の世界だった。ぼくは口を開けて何も考えられずにボーッとしながら、ゆっくりと白い斜面を踏んでいく。氷河の縁に近寄ると、クレバスに落ちるかもしれない。

海辺に引き返すと ペンギンのコロニーに足を向けた。夏の子育てが終わった岩場の上は、寂しいほど閑散として、所々に身長60センチほどのペンギンが白い胸を張って海を見つめ、嵐の名残風に吹かれて置物のように立っている。もともと海だった彼らが、最果ての氷の世界に生まれ、毎日何を思って生き、老いて海の水に還るのか。

忍び足で近づくと、彼らは見て見ない素振りで、決して視線を合わせずに、急ぎ足で遠ざかる。こちらが本気で追わない限り、数メートル以内には近寄れない。 額の左右に、まゆ毛のような三角模様、オレンジのクチバシが白黒の体によく似合う、ジェンツー(Gentoo)ペンギンという種類だ。あたりには、干し魚のような強い臭気が満ちていた。

その翌日も、小さなドリアン湾の水面には、雪まじりの風が吹いていた。天気の回復を祈りつつ、出発予定を繰り延べる。が、4日目の朝がきても、厚い雪雲には切れ目も出ない。フランス艇は、それでも出航を決意した。天気が悪くても乗員二人なら、交代で氷山を見張って進めるだろう。

「南米まで無事に着いたら、ぜひブエノスアイレスで会いましょう」

一足先に南極を離れる彼らと、固い握手を交わして約束する。だが、夏の終わった今、これから南極大陸を目指す<青海>が、凍結の迫った南極の海を脱出し、大荒れのドレーク海峡を無事に渡り、南米まで帰り着ける保証はない。

背筋に冷たい汗を感じながら、湾を出ていく彼らに向けて、ぼくは両手を何度も振っていた。
<青海>よりはるかに大きなフランス艇にとっても、それは決して平穏な航海ではなかった。数週間後、彼らのヨットは南緯50度付近で転覆したという。



 解説


 月刊<舵>20134月号より。

35話目は、南極の島を歩いた話です。

**詳しい解説は、後日掲載予定です**

 





このページの白い背景は、南極大陸の雪面写真から作成しました。

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