ヴィーンケ島のドリアン湾(64°49′S, 63°30′W)に、日の出前の青い光が水底のように満ちている。空も、海も、まわりの山々も、明け方の青い夢のようだった。

停泊中の<青海>を囲む水面は、まるで青石張りの硬い床。――湾一面が凍って身動きできないのか。ゴムボートのオールを手に取ると、デッキから身を乗り出して海を突く。力を込めたオールの先は、氷板をガシャリと貫いた。厚さ2cm以下の薄氷だ。船底を補強した<青海>なら、湾を出るのに支障はない。

快晴の澄んだ夜明け空に、ほどなく朝日が昇り始めると、沖の方角には氷に包まれた標高2,822mの頂上が、ドキリとするほどに光る紅色に染まってきた。

5日も続いた雪まじりの風は嘘のように静まって、見上げる空は心が吸い込まれそうなほどに青く、ひと切れの雲も見当たらない。

それは何年も待ち望んだ朝だった。半月前に南極の火山島に着いて以来、氷に包まれた島々の間を南下して、いよいよ今日は南極半島に到達する。地球最南の大地、あこがれの白い大陸を、自分の両足で踏みしめるのだ。

ゴムボートを水に下ろして舳先に座ると、パドルで海面の氷を突いて割りながら、少しずつ湾内を移動する。およそ2時間がかりで、船体を岩につなぐ合計百数十メートルのロープを回収すると、暖機運転の済んだエンジンで氷を割りながら、<青海>はドリアン湾を出てノイマイヤー水道を走りだす。

幅数マイルの狭い水道の両側には、息を飲むような白銀の山々が続き、海面には純白の浮氷が美し過ぎた。

だが、水道内には強い潮が流れ、舵を握る指先に異常な手応えを感じていた。潮に運ばれた無数の浮氷は、いたるとこに密集し、ついには<青海>の行く手を遮った。

速度を落とすと、やむなく船首を氷に突っ込んだ。大き目の氷塊は押し分け、薄板状の新氷はステンレスを張った船首で砕き、神経を極度に張り詰めながら進んでいく。水中のプロペラが硬い氷塊に当たって壊れれば、たちまち航行不能になるだろう。

出発から6時間後、南極大陸の上陸点に決めたパラダイス湾に着いたとき、午後の太陽は山々の氷の稜線に、少し近づきかけていた。

奥行き十数キロの広々とした湾内は、魔法をかけたように静まって、かすかな風も、さざ波もない。まわりを取り巻く白銀の山々が、風の侵入を防いでいた。

それは信じがたいほどの凪だった。これほどの無風も、これほど真っ平らな海も、かつて経験したことがない。

湾の水面は、あたかも一枚の巨大な鏡だ。周りを囲む白銀の山々を、そのまま完璧に反射している。氷を被った山々の光り輝く姿、まぶしい雪景色を、上下対象に写している。

水銀状に光る広大な水面には、周囲の山々から崩れ落ちた無数の白い氷塊が、耐えられないほどに美しい。

湾の奥に向かう<青海>の前方には、氷と岩の白黒模様が、水面から空に向けて千数百メートルも立ち上がる。その壮大な陸地の底辺、海との境界線に目を凝らす。と、かすかな点のように数個の赤い建物が見えてきた。アルゼンチンの科学ステーション、アルミランテブラウン基地だった。

基地の50m手前に<青海>が着いたのは、湾に入って一時間半ほど後だった。錨を打ってゴムボートを水に下ろすと、水鏡に映った山々を揺らして何の困難もなく漕ぎ進み、あこがれの大陸、念願の目的地、地球最南の白い大地を、ついに自分の両足で踏みしめる。

数年来の夢がかなって、南極大陸到達に成功した。アルゼンチンで頑張った<青海>の改造作業、夜遅くまでの資金稼ぎ、あの忘れられない転覆事故、荒波のドレーク海峡を渡るつらい日々。これまでの苦労は、すべてが今日のためだった。――なのに、感動らしいものは何もない。いや、感動に浸る無防備な状態は許されない。それよりも、硬く鋭い大小無数の氷塊が、潮に運ばれて動き回る湾内で、<青海>が無事に今夜を過ごせるか、ただそればかりが気がかりだ。

基地の建物に向けて、岸の斜面をゴム長靴で踏んでいく。やがて目撃したのは、放火で燃え落ちた無人の廃墟だった。