第38話
氷海の彼方へ
氷で埋まったルメール水道。山々に積もった雪が自重で圧縮されて氷となり、海に崩れ落ち、大小無数の浮き氷となる。氷の間を縫って進むため、小回りの利かない帆は降ろし、3馬力半のディーゼルエンジンで航行中。
南極大陸上陸の夢を果たし、思い残すことは何もない。
――はずなのに、冬の迫る南極半島の岸沿いを、さらにどこまで南下できるか確かめようと決意した。
「これまでに獲得した知識と技術を応用すれば、次も必ず成功するはずだ」
太陽が北天に近づいた午前10時、<青海>は60キロ南のガリンデス(Galindez)島を目指して帆を揚げた。行く手の水平線に横たわる白い山脈の塊には、ナイフで切断したような鋭い切れ目が見えてきた。峡谷の底の通り道、ルメール水道だ。およそ15キロ続くこの谷を、人々はコダック(Kodak)ヴァレーとも呼ぶらしい。急峻な山々が谷底の水面からそそり立つ、南極の景勝地と言われる絶景に、皆が夢中でカメラを向けるためだろうか。
北風に押されて下る<青海>が、ルメール水道の口に達したとき、ぼくは双眼鏡を握って狭い谷間をチェックする。前方に川のように続く水面は、途中から青白い氷で埋まり、通過できる隙間はない。
無数の氷塊が密集して見えるのは、離れて眺めるからだろう。近寄れば、氷と氷の間が開くに違いない。エンジンを始動して帆を降ろすと、谷底の水面を走りだす。
が、近づけど、近づけど、前方の氷に隙間は見えてこなかった。そしてついに<青海>は、水面と氷原の境目に突き当たった。
長さ数十センチの透明な氷片、ドラムカンほどの白い氷、数メートルを超す青白い氷塊が、びっしりと谷間を埋めている。これでは進めるわけがない。といって、すでに出発から5時間が過ぎた今、北風に逆行して引き返せば、途中で必ず日が沈み、闇に隠れた岩や氷に衝突するだろう。もはや進み続ける以外に道はなかった。
心を決めると、マストに取り付けたステップを駆け登り、海面上10メートルから前方の氷原を見渡した。急峻な山々が左右にそびえる谷底の水面は、大小無数の氷で埋まり、通過できる隙間はどこにも見つからない。
「でも、引き返せない以上、戻れない以上、ともかく前進しなくては」
マストの先端で瞳を凝らし、注意深く前方の谷間を何度もチェックする。と、白い氷原の一か所に、円い黒池のような水面が、ぽかりと口を開けている。小さな氷片は押し分け、大きな氷塊は迂回して、ひとまずあの黒池まで前進を試みよう。マストを下りると、船首を氷原に突き入れた。
次の瞬間、氷との凄まじい摩擦音が船体を包囲した。ガラスのような鋭い無数の氷片は、絶え間もなく船首にぶつかり、船腹をえぐり取るように擦りながら、次々と船尾に流れていく。数百キロもある氷塊が当たるたび、<青海>とぼくの体は前後に激しく揺さぶられ、ガラガラという金属音が、アルミマストに鳴り響く。
およそ20分後、氷原に口を開けた黒池に達すると、再びマストに駆け上り、さらに前方を確かめる。が、今度は絶望に近い。大小無数の青白い氷塊が、これまでより密に詰まっている。前進を強行し、氷原の中で行動の自由を失えば、風や潮で動く氷の圧力で、船体は破壊されるかもしれない。
「そんなことが起きてたまるか。どうにかして、氷原を無事に突破しなくては」
谷底から空を突くマストの先端にしがみつき、懸命に瞳を凝らして進路を探す。が、やはり前方一面は白い氷ばかりで、黒い水面はどこにも口を開けていない。
しかし、あきらめずに詳しく観察を続けると、<青海>の数百メートル横、水道の岸に切り立つ崖と氷原の間に、ほんのかすかな黒い線が小川のように延びていた。あの細長い水面に行けば、おそらくルメール水道を抜け出せる。
急いでマストを下りると舵を握り、黒池の内側から氷の縁を突く。が、だめだ、氷の密度が高すぎる。船首は氷原にめり込んで、ついに力尽きるように停止した。
「あの黒い小川に行けば、水道を脱出できるのに……」
ふと、前方の白い氷原から空に視線を上げたとき、水道の左右に千メートル近く切り立つ山々の、息を飲むほど鮮烈な映像が、両眼に鋭く飛び込んだ。急峻すぎて雪もつかない荘厳な峰々。だが、斜面を縦横に交差して走る細い窪みに、雪が溜まり、黒い岩肌は白く繊細な網目模様に包まれている。極限まで澄んだ冷気の中、絶壁状の山々は神々しいほどに、美しくも人を威圧する迫力で立っていた。