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南半球の四月初め、パタゴニアの多島海を下る[青海]は、地上最南の町プエルト・ウィリアムスに到着した。
桟橋に上がるなり、写真を撮るなと告げられた。港内には灰色の軍艦と魚雷艇、丘の上には通信用鉄塔が立ち上がる。この海軍基地から百数十キロ南に、目指す岬は位置している。
ホーン岬の詳しい情報を得るために、基地の司令部を訪ねてみる。入口で兵士に事情を話すと案内された、事務所の一室。座っていたのはコマンダンテ、基地の最高司令官だ。
紺の軍服を着た初老の紳士は、微笑みながら握手を求めた。ぼくは自己紹介を済ませると、壁に張られた海図の上に、岬に向かうコースを指で描く。
「だめだ。軍事上の理由で通行は許可できない」
コマンダンテはそう言うと、別のルートを指し示し、途中の危険な岩や潮流、嵐の際の避難場所など、詳しい助言をしてくれる。態度は驚くほど好意的だ。できれば、岬の安全な上陸地点も教わりたい。
が、「ホーン岬に上陸したい」と打ち明けて、「そのような危険行為は禁止する」と言われれば、夢が夢のままに終わるのだ。
ひとり言のように、軽い調子で言ってみる。
「岬の前を通るとき、幸運にも天気がよかったら、ボートで上陸してみたい」
突然、彼の笑顔が曇った。ぼくは失敗したと思って唇を噛む。しばらく沈黙が続いた後、コマンダンテは語り始めた。
「ホーン岬の海域では、強風が連日のように吹き荒れる。数か月前、ドイツのヨットが烈風に逆らって丸4日も走り続けたが、少しも岬に接近できないまま、とうとう大波に呑まれて転覆した。我々チリ海軍が救助して、この基地に連れてきたのだよ」
彼は机に手を伸ばすと、今日の天気図を取り上げた。
「ごらん、低気圧が幾つも並んで、毎日のように通っていく」
「でも、低気圧の後には、必ず高気圧が来るでしょう?」
「いや、君は間違っている。高気圧はこないのだ。低気圧だけが次々と通過するのだよ。夏なら見込みもあるが、今はもう4月に入っている。ここ南半球では冬が目前で、天候は絶望的に悪い。チリ海軍は君のために各種の援助が可能でも、この地方の天気に関しては、神に祈るほか道はない」
真剣な口調でコマンダンテは続ける。
「日本からここに来るまで、地球を半周する長い航海で、君は何度も嵐を体験したはずだ。しかし、他と違ってホーン岬の嵐は……」
彼の言葉を遮ると、ぼくは後を続けた。
「他と違ってホーン岬の付近では、深さ4000メートルの海底が、急に100メートルまで浅くなる。そのために起こる急峻な三角波が、船にとって非常に危険なのです」
「まさにその通りだ。波長の短い悪質な三角波に襲われて、ヨットの帆やマストを失えば、たとえ沈没をまぬがれても、流されて岩に衝突するか、大洋を永遠に漂流するばかりだよ」
彼の厳しい言葉が、ぼくの体と心の奥に刻まれた、触れたくない記憶、思い出したくない感覚、忘れていた荒海の恐怖を呼び覚ます。だが、上陸を禁止するとは、彼は一言も語らない。単独で上陸可能とは、おそらく思っていないのだ。
夕方、コマンダンテがトヨタの四輪駆動で港を訪れ、岸壁から[青海]を見おろした。
「これほど小さなヨットで、日本からよくここまで……。ホーン岬を無事通過できるよう、くれぐれも慎重な航海を」
翌日、飲料水の補給を済ませると、[青海]は基地の町を後にした。
午前5時、真っ暗闇に目を開ける。強風の唸り声をしばらくベッドで聞いていた。起き上がってハッチを開くと、南緯55度の凍った風が、顔の皮膚を突き刺した。一瞬、身震いしてハッチを閉める。
「今日はまだ無理なのか?」
昨日までは入江の口で岩に波が砕け、空に水柱を上げていた。が、それはもうない。風力も確実に落ちて、上陸には好都合の西風だ。これ以上待っても天気がよくなる保証はない。明日には再び嵐が始まるかもしれない。よし、行こう。やはり行こう。途中で風が強まれば、すぐに戻って来ればよい。
いつのまにか、突風に混ざった雨粒が、船室の小窓をピシピシたたき始めていた。少し迷った末、それでも出発を決意すると、缶詰で手早く朝食を済ませ、黄色いカッパを着て外に出る。夜明け直前の一面が青い景色の中、冷たい空気を吸っては吐いた。朝の出発は、やはりいつもすがすがしい。
明け方の海に、[青海]はエンジンを軽快に響かせて、入江の外に進み出る。片手に行動計画書を持ちながら、通過点に定めた岩や小島を予定の所要時間でクリアして、時計の針のように正確なペースで南下する。すべてを計画通りに行って、日没前に入江に戻ってこなければ、暗闇の中で岩々に衝突するだろう。ホーン岬周辺の航海には、綱渡りのような緊張感が付きまとう。一歩踏み外せば、それですべてが終わるのだ。
ときおり、風をぎっしりと固めたようなウィリウォウの突風が帆を襲い、[青海]は大きく横倒しに傾いた。行く手の空には青黒い雲。その底辺から幾つも不気味に垂れ下がる、靴下か手足のようなものは何だろう。
朝の出発から3時間15分後、目指す小湾の前に達して帆を降ろすと、幸いにも湾内は岬の風下で、うねりも波もたいしてない。これならば上陸できそうだ!
作戦の成否を決める停泊方法は、状況に応じて数種類の案をたててある。風向と地形を再確認すると、計画書の第三案に着手した。
まず初めに、湾内に密生する海藻の林に注意深く近づいて、計画書の第一ポイントにフィッシャーマン型の錨を投下する。次にエンジンを全速で回し、船体で錨のロープを強く引く。と、予想通りだった。綱渡りができるほどロープを固く張っても、錨は全く滑らない。がっしりと海底に食い込んだ。急いで第二ポイントに移り、もう一本の錨も投下する。
これで大丈夫、これで完璧だ。過去の経験から風力8の疾強風にも耐えるだろう。上陸中に[青海]が流される不安はない。ぼくは小躍りしていた。上陸は成功したも同然だ。
水面にボートを降ろすと、オールに力を込めて、岸までの150メートルを漕ぎ進む。風はときおりヒューヒューと息を強め、小波が岩に白く砕けている。が、そんなものは気にならない。海藻の上を滑るように通過して、黒岩の岸辺に到達した。
「やった、ついにやった。伝説のホーン岬を踏みしめた」興奮でヒザはガクガク震えていた。よくもまあ、こんな最果ての地まで来たものだ。[青海]は今、ホーン岬に停泊して、足裏には何年も夢見た幻の地面を感じている。これほど愉快で素晴らしいことが、またとあるだろうか。いままでの努力と苦労は、すべてが今日のためだった。
黒岩の浜で写真を撮り、記念の岩を集めるうちに、予定の一時間は過ぎ去った。でも、このまま帰りたくはない。上陸したからには、あこがれの岬にテントを張って一夜を過ごしたい。海面上406メートルにそびえる、三角岩の頂上も踏んでみたい。今ならそれができる。決断すれば間違いなく実現できる。今やらなくては一生の間、チャンスは二度とこないだろう。やりたい。なんとしてもやりたい。
が、やはりそれはできない。99パーセント安全でも、1パーセントの致命的な危険に対し回避策が用意されていなければ、無謀な行為と知っている。次の嵐はいつ始まり、どれほど勢いを増すか分からない。急いで出発点の入江に帰らなければ、もしかすると永遠に、どの入江にも戻れない。
海藻の上をボートで引き返すと、150メートル沖の[青海]に乗り移り、ただちにロープを引いて錨の回収にとりかかる。が、何か、何かおかしい。錨が、やけに重い。というより、力が、腕に力が、思うように入らない。
左手に巻いた包帯に目を向けると、真っ赤に染まっている。食事の後片付けのとき、缶詰のふたで指を深く切り、傷の奥には白いものまで見えていたのだ。合計110メートルのロープを全て引き上げ、錨を回収できるだろうか。
濃いねずみ色の空からは、固い雹がバラバラと降り落ちて、デッキを鳴らし始めていた。風も急に勢いを強め、次の嵐が迫っている。一分でも早く、岬を離れなくては。
痛みだした左手をかばいながら、両腕で少しずつ、少しずつ、錨のロープを夢中で引き寄せる。出血が増すたびに何度も休み、背中一面に冷たい汗を感じながら、懸命に錨の回収を試みる。と、重さ20キロ近い鉄の塊は、やっとのことで、水面に姿を現した。
ところがどうだ、錨の爪には茶色いビニールのような海藻が、数十キロ、いや、おそらく数百キロも、ごっそりと絡みついている。これではどんなに引いても、いくら頑張っても、腕の力、一人の力では、水面からデッキに上がらない。
さらに強まる風の中、急いで船尾の物入れを開け、このときに備えてサンフランシスコで用意した刃渡り45センチの蛮刀を出すと、デッキに腹ばいになり、上半身を海に突き出して片手を伸ばし、海藻の塊をたたき切る。
「ふう、やっと錨は回収できた」
即座に帆を揚げると帰路につく。振り返った後ろには、ホーン岬の頂上が、雹の降り落ちる黒い空を、さらに黒く突いていた。強風で海一面が白くなり、顔は飛沫で濡れる。が、そんなことは、もはやどうでもよかった。
嵐に追われるように、朝と同じコースを3時間半で引き返し、山間の安全な入江に逃げ込むと、腕時計を見た。出発から約9時間。行動計画書よりも1時間、すべてが早く完了して、〈ホーン岬上陸作戦〉は成功した。