

これほどバカな話はないだろう。
空は確かに青く晴れていた。でも、水平線の一か所に墨色の雲が固まり、渦巻くように見える。その黒い塊に向けて一直線に、[青海]は吸い込まれるように駆けていた。
ぼくは油断したのか。気圧計の表示は低くない、空には太陽も照っている、どうせ小さな低気圧だろうと。
ほどなく風の唸りが高まって、空は黒雲に覆われた。[青海]は追手の強風に帆を膨らませ、夕暮れの海を突っ走る。
速度が出るのは嬉しいけれど、風は今にも帆を破りそうなほど、強さをどんどん増していく。
ぼくは不安に襲われて、マストのメイン・セールを引き降ろす。そこで急に日が落ちて、海には闇が訪れた。
暗黒の夜空には、ときおり雷の閃光が走り抜け、黒雲を不吉に照らしだす。薄気味悪い海原の光景は、地球の果てに続く南大西洋にふさわしい。神話の世界に住む想像上の怪物が、空から突然に舞い降りても、たいして不思議はないだろう。
その闇空を吹き渡る、魔物の声のような追い風が、さらに強まるのに比例して、黒い海面に立つ波も、高さを急激に増していく。ついには、波頭を大きく巻き込むように崩れ、次々と[青海]に被さった。
これ以上、海が荒れないでほしい。そう祈りながらハッチを開けて船室に降りると、床にカッパと長靴を脱ぎ捨てて、大揺れのベッドに横たわる。
真夜中過ぎ、巨大なガラスをたたき割るような音響が、真っ暗闇に鳴り渡った。
と同時に波の衝撃が、体を宙に激しく投げ飛ばす。「転覆、いや、横倒しか? それにしても、あのすさまじい音は?」さまざまな思いが脳裏を駆けめぐる。が、スイッチを手探りして船室の明かりをつけたとき、ぼくは上下の感覚を取り戻すと、事態を一瞬に理解した。
大波で転覆した[青海]は、船底についたバラスト重りの復元作用で、元の姿勢に起きていた。でも、帆に風を受けて矢のように駆けていた船体は、完全に速度を失い、波のままに揺られている。
「ということは……、まさか、そんなことが起きてたまるか」
急いでライトを握るとハッチを開き、頭上のマストに光を向ける。が、そこにあったのは、暗闇を横切る波飛沫と、烈風の唸る悲痛な声ばかりだ。
ついにマストが折れた。決して起きてはならないことが、とうとう現実になってしまった。これでもう、南極到達の夢も、[青海]の航海も、すべてが終わる、何もかもだめになったのだ。体中の力が抜けていく。
だが、船体に次々と響く、初めて体験する鈍い音。大波で揺れる[青海]を急に止める衝撃は何だろう。
海面にライトを向けると、そこに見たのは、銀色の長いヒゲかツタの絡まった、動物か植物かも分からない、海から突き出す柱のように長いもの。生まれて初めて見る奇妙なものが、波の動きと合わせるように、[青海]の横腹を打っている。――折れたアルミのマストが、支えのワイヤーをつけたまま、海に逆立ちに没していた。
それで充分だった、もう何もしたくない。船室に戻ってベッドに入ると、頭から毛布を被る。ブエノスアイレスで一年半もの間、南極に行くため、それだけのために、すべてをかけて準備を続けてきたのに……
だが、鈍い衝撃が次々と船体に響いている。急いで水面のマストを回収しなければ、薄い船腹に穴が開き、[青海]は沈没するだろう。
しぶしぶカッパを身に着け、ライトを握ると、波飛沫の降る真っ暗闇に歩み出た。
照らす光のコーンの中、海から突き出すアルミ・パイプの陰惨な折れ口は、刃物のように鋭くとがり、波の力で生き物のようにうごめいた。不注意に手を触れれば、指の一本や二本、すぐに切断されるだろう。
[青海]は致命傷を負っても、ぼくはまだ五体満足だ。くれぐれも怪我をしないよう、慎重に回収作業を始めよう。が、この嵐と闇の中、体を振り落としそうに揺れる不安定なデッキの上で、海水が入って重くなったマストのパイプを、一人で引き上げられるものか。マストが船腹を打ち破る前に、手早く回収できるものか。
いや、とても無理だ。仮にできても、作業中に波が襲って落水すれば、水面を吹く烈風が、ぼくと[青海]を即座に引き離す。
くやしいけれど、船体とマストをつなぐワイヤーを外し、マストを海に沈めよう。それ以外、[青海]を救う手段はないだろう。
額にヘッドランプ、胸には一メートルほどの命綱をつけると、烈風が悲鳴のように唸る闇の中、広さも深さも計り知れない闇の中、命綱の先のフックを手すりや金具に掛け替えながら、数メートルも上下に揺れるデッキを這うように移動する。
小さな[青海]にとって、無限にも近い漆黒の大海原。ヘッドランプの光に白く照らされた、幅二メートルのデッキの上だけが、ぼくの命の助かる世界。頭上に次々と崩れる大波が、その狭い実在の世界から、得体の知れない暗黒に、ぼくを押し流そうとする。命綱のフックを掛け換えるとき、もう一方の手を誤って離せば、次の瞬間、永遠に続くかもしれない闇の世界に落ちるのだ。
全身に波飛沫を浴びながら、カッパのポケットからプライヤーを取り出すと、船体の前後左右に固定されたワイヤーの端を一つずつ外していく。だが、合計七本のうち、思い直して船首の一本は残した。マストは船首から水中に抵抗物として吊り下がり、漂流する[青海]の船首を波に向けるシーアンカーの作用をして、波の衝撃を減らすだろう。
懸命の作業を無事に終え、大揺れのデッキを這って船室に戻ると、転覆時に棚から飛び出た衣類や本や食品が、大地震の直後のように、床をヒザの高さまで埋めていた。
大波が不気味な水音を鳴らして接近し、ときには音もなくひそかに近づいて、小さな[青海]を直撃するたびに、強烈な打撃音とともに船室は六十度以上傾いて、ナイフやフォークや割れたボトルのガラス片が、ぼくの体と一緒に宙を飛ぶ。
全身を打っていた。船酔いがひどい。牛乳ビンの底で作ったメガネをかけたように、眼がぐるぐる回る。込み上げる吐き気に耐えながら、ベッドに這い込むと、頭の上から毛布を被る。顔の皮膚は血でヌルヌルしていたが、手当する気力はなかった。
(転覆の要因等については、BlueWaterStory第2話のページに図解を掲載しました。)

昨夜の出来事、あの転覆事故は、おそらく夢、ぼくは悪い夢を見ていたのだ。念入りな点検整備を欠かさない、大切なマストが、折れてしまうはずがない。
祈るような気持ちでハッチを開ける。が、いつもは前方の空を半分ほども埋めていた、風をはらんで膨らむ白い帆も、頭上に高々とそびえる九メートルのマストも、前後左右に張った支えのワイヤーも、奇妙なほど何もない。毎日見慣れていた当たり前の景色が何もない。長年住んだ家の天井と壁が取り払われ、残った床から空を見上げるように何もない。
まわりの海に目を下ろすと、そこは身の毛もよだつ異様な銀世界。次々と盛り上がる波の山には、雪、雪が積もっているようだ。烈風で生じた水の泡が、真っ白い雪のように見えるのだ。あたかも飛行機に乗って、冬の山地をさまよっている。
いったい、どうすれば陸まで戻り着けるだろう。出入港用の小さなエンジンでは、波のある海は進めない。マストを失って帆を張れない[青海]は、翼をなくした鳥と同じだ。海流に運ばれ、もしかすると永遠に大洋をぐるぐる回り続け、食料がきれて。いや、運よく魚が釣れれば。でも、水、飲み水はどうしよう。
ハッチを閉めると、内側から金具でロックした。出入口と換気口、給排水口も閉じれば、ヨットは波間に漂うカプセルだ。上下が逆になっても、沈没の危険は少しもない。どんな大波を受けても不安はない。
が、その安心感は、さらに強まる波の衝撃で、急速に薄れ始めていく。[青海]を打つ波は、水というのに固体の何か、貨物船から落ちて漂う鉄のコンテナか、大きな流木かクジラのようだ。体が地面に激しく落下したように、波の衝撃が痛いほど全身に響き、強烈な打撃音が耳をキーンと唸らせる。いつまで体がもつだろう。
大波が次々と船体を襲うたび、木材を折るようなキシミ音が鳴り響く。なんとかしなくては、強化プラスチックの船腹が疲労破壊され、[青海]は沈没してしまう。
船首から海に吊ったマストの残骸は、どうやら抵抗物の効果を発揮していない。ならば、役立たないマストは切り離し、替わりにパラシュート型シー・アンカーを投下しよう。波間に漂う[青海]の船首は、シー・アンカーの抵抗作用で波に向き、波の衝撃を最小限の面積で受けるだろう。カッパと長靴を身に着けると、船室のハッチを開き、吹きさらしのデッキに飛び出した。
わずか数秒後、[青海]の横の海面が、本物の丘のように高く盛り上がった。と思う間に、頭上から白く泡立つ塊が崩れ、体は水流に投げ飛ばされる。海に落ちる、ついにやられた、もう助からない、いや、何か、急いで何かを握れ……
気がつくと、頭、胸、腰を激しく打って、強い痛みを覚えていた。波に襲われた体は、幸いにもデッキの端で止まっていた。が、胸の命綱は外れていた。
力をふりしぼって痛む体を起こすと、海に何度も振り落とされそうになりながら、濡れて滑る大揺れのデッキを船首に這い進み、水中のマストにつながるワイヤーを切り離す。
常に点検と整備を欠かさなかったマストは、自分の体の一部のように大切なマストは、帆とワイヤーをつけたまま、海の底に沈んでいく。もったいない、でも、[青海]を守るため、自分が生きて陸に戻り着くため、しかたないと思った。
布袋からシー・アンカーを取り出すと、起伏の大きな海原に投下する。嵐の真っただ中、冬の山地に迷い込んだような、真っ白く泡立つ水面に、身の毛もよだつ烈風の海面に、オレンジ色の布製パラシュート型シー・アンカーが、ぞっとするほど不気味に鮮やかだ。
作業を無事に終え、やっとの思いで船室に戻ると、激しく揺れるベッドに倒れ込む。心も体も極限まで疲れ果て、何もかもが悲しすぎた。
2年前、ホーン岬上陸に成功して、ヨットのことも、海の上のことも、よく知ったつもりでいた。この美しい水の星を自由自在に旅するための、技術と知識を、手中にしたと思い込んでいた。でも、実際のところ、ぼくは海を少しも知っていなかった。
4年も前に住み慣れた祖国をわざわざ離れ、町にない大切なことを海に教えてもらおうと、無駄な努力や苦労を続け、二度と戻らない青春の日々を浪費して、ぼくは何も学んでいなかった。海を頭で理解していても、自分の体、体で知っていなかった。泣きたいほどに悔しかった。
船室の床に落ちて重なる本や衣類の間から、ナベと食器を拾い上げ、やっと見つけたライターで石油コンロに点火して、とっておきの米国製缶詰スープを温める。どんなに船酔いしても、これだけはうまいはずなのに、絶望と極度の疲労で神経がおかしくなったのか、奇妙なほど味がない。
ぼくはどうして、海を旅しているのだろう。陸の上で暮らすほうが、何倍も快適で安全で楽なのに。だいいち、この航海が、誰かの役に立つというのか。自分自身のためになるかさえ分からない。なのに、過去に決意したから、決めたからという理由で、旅を続けているのか。
運よく陸に着いたら、なんとかして旅費をつくり、すぐに飛行機で帰国しよう。以前は[青海]と運命を共にするつもりでいたけれど、船酔いと絶望感で、これほど苦しくつらいまま、海で死ぬのはいやだ。たとえ[青海]を捨てても、自分だけは助かりたい。日本に帰って、駅の立ち食いソバを味わいたい。
それにしても、これまで生死を共にした、ぼくにとって本当にかけがえのない[青海]が、かわいそうでたまらない。自分で頼みもしないのに、この世につくられて、25,000キロも旅した地球の裏で捨てられて……。もしかすると、そのどちらも[青海]は望んでいなかった。でも、それは、つくられたもの、生まれてきたもの、すべてに当てはまる、悲しさかもしれなかった。
転覆から二日ほどで嵐が収まり、乱立する大波の裏に隠れていた水平線が、再び見え始めると、帆桁のパイプでなんとか工夫して、短い応急マストを作り、役立つか分からないほど小さな帆に風をはらませる。
再び転覆せず、少しも潮に流されず、向かい風が全く吹かず、仮に直線で進めても、最寄りの陸まで五百キロ。
「敗走」、オレンジ色に輝く夕陽に向けて、つぶやきながら舵をとる。
港で知り合った背の高いスイス人、ジョニーヴ・レイモンド、23歳。
ガスオーブン、温水シャワー、高価な電子航海機器、完璧な設備の船室で、彼は厳しく警告する。
400キロ北の大都市、暮らし慣れたブエノスアイレスに着くと、ヨットクラブに置いた[青海]に住みながら、資金稼ぎにとりかかる。日本人中学生の家々を一晩に4時間ほど回り歩いて、数学や理科を教える日々が始まった。