-- これは実話です --
第11話  秘境の島・ダーウィンの気配

人里遠く離れ、めったに訪れる人も船もない、ひっそりとしたUsborne群島の浜辺

big wave 大波

 旅先や日常生活の中でも、ふとしたことから先人あるいは祖先の行動や思いに気づき、「なるほど、そうか」と納得することがないだろうか。               
南米南端のホーン岬に向けて、チリ多島海を数カ月も南下しながら、ぼくの心はどれほど時代を旅したことだろう。


多島海に入って49日目、延々と続く無人地帯を下る<青海>は、3つの小島と岩々が並ぶ、Usborne群島に立ち寄った。

外洋の波風に暴露された、この人里離れた小さな寂しい島々に、わざわざ船舶が停泊する理由も必要性も見あたらない。そのため周囲の水面は未測量なのか、海図には水深の数字もない。

 

頼りにしている米海軍発行の水路誌には、情報が少しだけ載っている。

〈一番大きな島の東、深さ約10メートルの所に小型船は停泊可。海底の質は砂〉


島の岸には、美しい黄色の砂浜が見えている。ならば水路誌の記載どおり、海底も砂で、錨は確実に利くだろう。今夜はここで安心して熟睡できる。


が、投下した錨の利きを調べるため、エンジンで船体を走らせて、アンカーロープを強く引くと、なぜか錨は滑るのだ。海底の質により最適な錨が違うから、<青海>に積んだダンフォース型(13kg)、CQR型(16kg)、フィッシャーマン型(18kg)の錨を、すべて試すことにした。


ところが3時間後、重たい錨の上げ下ろし作業の末、ぼくは途方に暮れていた。砂に効果が高いダンフォース型の錨でも、なぜか結果は同じだった。いや、そんなことがあるものか。砂の海底なら錨は利くはずだ。なにかが、おかしい。


あたりはすでに夕暮れで、急がないと日が沈む。夜中に風が強まれば、闇の中を<青海>は流されて、付近の島に座礁する。残された方法は、海岸の木にロープを結ぶこと――急いでボートを水に下ろすと、黄色い砂浜に向かって漕いでいく。


が、岸に着くなり、唖然とした。自分の目が信じられなかった。両足の下にあったのは、金魚鉢に敷くような美しい玉砂利の海岸だ。黄色い浜を踏むたびに長靴が潜り、引き抜くときは足の甲からパラパラと砂利がこぼれ落ち、少しも抵抗を感じない。海底も玉砂利なら、錨が利かないのは当然だ。パチンコ玉に錨を下ろしたのと同じだろう。


そのとき、ぼくは直感した。
「人類の歴史が始まって以来、この島に停泊した船は数えるほどもなく、上陸を試みたのは、ぼくが初めてかもしれない。19世紀の昔、多島海を探検した英国船が、おそらくここを訪れ、美しい砂浜を見たと錯覚した。彼らはグリースを塗った重りを投下して、海底の深さと質を調べたことだろう。だが、紐をたぐって重りを水から上げたとき、海底の玉砂利に混ざった少量の砂が、グリースに付着していても不思議はない。採取した砂粒と、目の前の黄色い浜を見て、〈砂の海底、停泊に適す〉と報告書に記し、それが当時の水路誌に載ったのかもしれない。この人里離れた小島に彼らは上陸する理由も必要性もなく、以後百数十年が過ぎた今日まで、錨を下ろした船も上陸した人間も、おそらく皆無に近く、ゆえに玉砂利の存在に気づく者もなく、水路誌の記載は昔のままかもしれない」


実際、この地方の水路誌には、明らかに昔の情報が存在する。<青海>の本棚の米軍水路誌、Sailing Directions for South America Volume 2には、さらに南のHazard群島について、次のような記載がある。


〈ビーグル号は2度、群島に停泊したが、波風に曝された最悪の場所だったという〉――1830年代、進化論のダーウィンを乗せたビーグル号が、多島海の探検調査に訪れた。その当時の報告が、いまだに唯一の泊地情報として載っている。


この地方は、やはり秘境中の秘境と言えるかもしれない。

Critical Advice to Sailors
錨を投下しただけでは、利くという保証は得られない。海底の種類に合わせた錨の選択、チェーンやロープの十分な準備と適切な使用、荒天下のアンカリング経験や知識の習得も大切である。ヨットを走らせる腕ばかりでなく、とどまるための技術も磨くことが、クルージング中に艇を失う危険を低減させることになる。



 解説


月刊<舵>2011年01月号より。


第11話目は、秘境の中の秘境の話です。まず最初に、この場所がなぜそれほど秘境なのかを、ご説明しましょう。

南米チリ多島海を下る<青海>は、日本の本州ほども延々と続く島々の間を南下していきますが、途中で外海に出る必要がありました。 下の地図には、赤線で<青海>のコースを記してありますが、この部分で島々の間の水路は途切れており、一度外海に出なくてはなりません。

緯度は南緯46から48度、日本で言えば北海道最北端より高緯度ですから、うねりも波も高く、海は決して穏やかではありません。できれば、大急ぎで通過して、再び島々の間の水路に逃げ込みたいものです。

ですから、船もヨットも、途中の入江にはほとんど寄らず、図上の青い点線のように、トレスモンテス半島を一気に回るコースを走ります。(仮に寄っても一か所程度でしょうか)

chilean patagonia

では、なぜ<青海>は、赤線のように複雑なコースをとったのでしょう? それは、小さなヨットで、単独航海だったからです。

というのも、青い点線コースは200キロ以上もありますから、小さな<青海>の速度では、一日で走ることはできません。また、交代要員がありませんから、徹夜で走らなくてはなりません。陸から遠い場合、航海中に寝ていても問題は少ないのですが、今回は陸のすぐ近くです。もし、風向きが適当でなければ、数日も徹夜を強いられる可能性があったのです。

そこで安全のため、トレスモンテス半島の入江に4か所も寄りながら、少しずつ南下することにしたのです。

しかしながら、それらの入江は、ヨットも船も滅多に訪れない場所、訪れる必要のない場所、できれば立ち寄らずに素通りしたい場所だったと言うわけです。 (図上の赤線が一部ジグザグになっていますが、強風の向かい風で難儀したためです。)

usborne islands


上の図が、今回の場所、usborne群島です。地図の上のボタンを押して、衛星写真をご覧ください。拡大すると、舵誌に書いた「美しい砂浜?」も確認できます。


この地は「秘境」であると述べましたが、現代までの歴史を振り返ってみましょう。

下の図は、国立科学博物館の資料(日本人はるかな旅展2001年)をもとに作製したものです。これによると10万年ほど前にアフリカを旅立った人類は、約3万年前にはシベリアに達し、1万5000年ほど前には、その当時、地続きだったベーリング海峡(ロシアとアメリカの間)を渡り、南米パタゴニア地方に達しています。

下の図の右は、チリ多島海に住んでいた人々を描いたものです。多島海最南のチリ軍港、プエルトウィリアムスの博物館に立ち寄った際、展示されているものを撮影しました。


このように、一万年以上も前に、人類はチリ多島海に達していたようですが、ヨーロッパの人々にとっては、ほとんど未知の秘境に違いありませんでした。

しかしながら、1492年のコロンブスによるアメリカ発見後、南米にもスペインやイギリスの船が訪れるようになり、しだいに植民地が作られていきます。

とはいえ、船舶の技術が未発達な当時、南米パタゴニアまでの航海は命がけの冒険であり、それから数百年以上も、地球の果ての秘境であることに変わりなかったはずです。

そして1830年代、日本で言えば江戸時代、葛飾北斎の富嶽三十六景 が刊行されたころですが、進化論で有名なチャールズ・ダーウィンを乗せたビーグル号が、世界一周の途上、パタゴニアの調査に訪れました。

舵誌の本文にも書きましたが、そのときに寄ったと思われる停泊地の情報が、現代の水路誌にも記載されており、それがその場所唯一の情報であったため、驚いたというわけです。もし、それ以後に再び調査されていれば、そんな昔の資料だけを載せることはないと思ったからです。

the beagle

上の図は、ビーグル号のコース、外観の絵画、船内配置図です。全長約30m(90.3ft)、幅7.5m、動力は帆で大砲6門(建造時は10門)を装備していたそうです。現代の外航船と比べ、決して大きくありません。ちょっと驚きですね。

ところで、下の写真は、舵誌の本文に出てくる、玉砂利の海岸で拾った玉砂利です。こんなツルツルの砂利に錨を降ろしても、滑ってしまい、利かないのは当然だったというわけです。

pebbles


***チリ多島海航海の詳しい様子は、aomi-storyでもお読みになれます。

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