-- これは実話です --
18話  氷河と嵐の水道
チリ多島海最南部ビーグル水道に崩落する、イタリア氷河(推定高約1,100m)
big wave 大波

ゴールを目前にして、心を不安が占領し、やはり無理かもしれないと悩み始め、先の見えなくなることがあるだろう。日本の本州ほども続くチリ多島海を3カ月以上も南下して、<青海>は目標のホーン岬に迫っていた。



嵐の始まりは、モーニング入江に着いた翌日だった。

山々に囲まれた小さな入江の上空を、雪混じりの風がヒューヒューと走り抜け、ときおりアラレがデッキにバラバラと落ちてくる。ビーグル水道のうねりが入江の中まで押し寄せて、<青海> は上下に揺れていた。湾の外では雪嵐が吹き荒れているに違いない。

パイロットチャートのデータによれば、これから目指す4月のホーン岬の海域では、卓越風が平均風力6に達している。平均6ということは、風力2になることもあり、ときには風力10にもなるだろう。それほど強い風の中、ホーン岬を無事に通過できるのか? 強風に流されて、岩場に座礁しないだろうか?

3日ほどで雪嵐が収まると、 <青海>は入江を後にして、ビーグル水道に進み出る。幅1マイルほどの狭い水道の岸辺には、次々と壮大な氷河が現れる。  

あの氷壁の高さは、いったい何百メートルあるというのか? 青い不思議な色彩と鉱物結晶のような表面は、目を向けるたびに鮮烈だ。  

氷河の溶けた水が、山の中腹から滝となって落ちる場所もある。双眼鏡を向けて、ぼくは息を飲んだ。落下する水が、まるでスローモーションだ。目前にそびえる山々も氷河も滝も、すべてがあまりに大きすぎた。頭が混乱するほど巨大なスケール感に、ぼくはただ圧倒されていた。  

その日の夕方、35マイル先のフェラリ泊地に着いてCQR型の錨を投下した。が、いつものようにエンジンで引いて利き具合を調べると、錨は海底を滑っている。水から上げてみると、錨にはドロがついていた。

おかしい、ドロの海底ならCQR型の錨は利くはずだ。不審に思い、次はダンフォース型の錨を下ろしてみる。が、これもだめだ、海底を滑ってしまう。デッキに引き上げると、やはりドロが一面についている。

錨は海底のドロに間違いなく潜っているはずだ。なのに、利かないわけがない。いったい、どうしたというのか?  

注意深く錨を観察した。ドロに触ると妙に柔らかい。だが、錨の爪先には、固いドロが少しついている。ということは、海底は固いドロで、その上に柔らかいドロの層があるに違いない。柔らかいドロの層は、錨が利くには柔らかすぎて、その下の固いドロは、錨が食い込むには固すぎるのだ。

食い込み性能に優れたフィッシャーマンアンカーを、いよいよ使うときがきた。チリ多島海の困難な錨泊に備え、サンフランシスコで入手したPaul Luke社製40ポンドアンカーの出番がついにきた。

1/3ケーブル(61m)のロープをフィッシャーマンアンカーにつなぐと、ただちに海面に投下した。次にエンジンで引いて利き具合を確かめる。と、まさに予想通り、しっかりと海底に食い込んだ。これで強風が襲っても、<青海> が吹き流されることはない。今夜は安心して熟睡できる。  

が、この出来事は、錨泊の難しさをぼくに再認識させていた。卓越風の平均風力が6に達する嵐の海で、ホーン岬の前に錨を打ち、手漕ぎボートで <青海>を後にできるだろうか? 

完璧な錨泊をしなければ、<青海>は無人のまま吹き流されてしまうだろう。――難所として悪名高いホーン岬に、一人で上陸するつもりでいたからだ。

Critical Advice to Sailors
錨を選ぶ際は、保持力(Holding Power)とともに食い込み性能を重視すべきである。保持力が大きくても軽い錨では、十分な食い込み性能は期待できない。必要最低限の食い込み性能を得るため、小型艇であっても一定(一説には15kg)以上のアンカー重量が必要である。



 解説


月刊<舵>20118月号より。

18話目は、ビーグル水道の航海です。

この水道に関しては、色々とお伝えしたいことがあるのですが、特に有名なのは氷河です。

このあたりは南緯55度。日本付近で言うと樺太の北端よりもさらに高緯度で、気候は寒く、山には雪が積もります。長年降り積もった雪は圧縮されて氷となり、重みで山々の谷間をゆっくりと下って海に落ちます。それが氷河です。(第12話・氷河の青いスクリーンに、氷河の図解があります。)

これまで数か月もチリ多島海を走る途中、氷河は何度も見たのですが、ビーグル水道内の氷河は特に素晴らしいものでした。




上の地図はビーグル水道内の氷河を表したもので、わずか20数キロ間に、次々と氷河の姿を見ることができます。まるで氷河の展覧会のような場所でした。



これは、写真を撮った順番から推測してアレマニア氷河と思いますが、右奥から氷が川のように流れてきているのが分かります。その氷の一片でしょうか。近くの海面に浮いていますね。見える部分の10倍近い体積が水面下にあるわけですから、衝突したら危ないですね。ちなみに「アレマニア」というのはスペイン語でドイツを意味しています。



これはオランダ氷河です。山の谷間を埋めるように、氷河が青い光を放っています。

あなたが一人でヨットに乗り、この場を走っている状況を想像してみてください。空気は冷たく、吐く息は白く、雪をかぶった山々は美しい白黒模様で、周囲に音はなく、人影も皆無であり、すがすがしさにあふれています。



そして舵誌の本文でもお伝えしたように、すべてを巨大なスケール感が包み込んでいます。 上の写真はロマンチェ氷河ですが、中央右で青い氷河が細く海に落ち込んでいます。その左側の向き合う位置に、白い帯状のものが海に落ち込んでいます。



中央部を拡大してみました。海に落ちる氷河の左にあったのは、山の中腹から流れ落ちる滝だったのです。

それに双眼鏡を向けたとき、落下する水がまるでスローモーションのように見えたため、「いったい何百メートルあるのだ」と、スケールの大きさに驚いたというわけです。
この滝の高さは不明ですが、ちなみに舵誌に載せた写真の氷河は、google earth上で計ったところ、なんと高さ1100メートル以上もありました。

日本で生まれ、箱庭のような小さな景色ばかりを見て育つと、地球上にはこんな大スケールの景色があることに、なかなか気づかないものですね。

もちんろん、現在では観光船でこれらの景色を体験することができます。でも、それでは写真やテレビで見るのとそれほど違わないのかもしれません。やはり、地図や海図を見ながら、景色を見る場所や角度、コースや日程等を自分で決め、ある程度の危険を覚悟のうえで行動することにより、普段はoffになっている感覚のスイッチがonになり、本当の景色の姿が身にしみて伝わるのかもしれません。

ヨットでこの地に来て、本当によかったと思いました。


では、本文の航海をもう一度振り返ってみましょう。

pto morning

これがビーグル水道内の入江、カレタ・モーニングです。数日続いた嵐も静まった、出発の朝です。山々は雪をかぶり、まるで墨絵のような、色彩のない世界です。

canal beagle

やがて入江を出た<青海>は、次の停泊地に向けてビーグル水道を走ります。 嵐の後で風は穏やか、波もほとんどありません。チリ多島海は猛烈な嵐で知られますが、こうして入江の中で嵐の終わりを待ち、風の弱い日に走れば、たとえ一人でも航海できるわけです。

吸い込む空気はすがすがしく、幅1マイルほどの狭い水路の岸辺には、山々が連なってそびえています。

canal beagle glacier

そして山の上では、氷河が青い蛍光色の光を放っています。近くの水面には、海に崩れた氷河の一片が浮いています。帆はだらりと垂れ下がり、風がほとんどありません。

その日の夕方には、70km程先のフェラリ入江に到着し、<青海>は錨を投下します。が、本文に書いたとおり、錨が滑ってしまうのです。 錨は海底の泥に潜っていることは確かなのですが、なぜか利かないという、訳の分からない不思議な状況でした。

paul luke anchor

そこで活躍したのが、このPaul-Luke製フィッシャーマンアンカーです。重量40ポンド(約18kg)あり、<青海>が持つ最大のアンカーです。ちなみに、他には35ポンドgenuineCQR型アンカー、30ポンドDanforth型アンカーと、24フィートにしてはかなり大きめの錨が揃えてあります。もちろん、アンカーロープは数百メートルも用意してあります。

アンカーを選ぶ際、カタログに載っているholding power の数値に惑わされないでください。カタログデータは、完全に海底に食い込み、海底が壊れないという前提での数値です。海底に対する食い込み性能が悪い錨であれば、その数値は全く意味を持ちません。詳しくは、また機会があればご説明しましょう。

pto ferrari

これは翌朝、フェラリ入江で撮影したものです。直前まで風は全くなく、水面には山々が完全にそのままの姿で反射していました。でも、太陽が昇り始めたのでしょうか。海面には突然に細波が立ち始めました。

こんな美しい景色の中にいることが現実で、日本で暮らしていた日々は夢の中の出来事のようでした。

大自然の中で暮らす自分が本物で、町の中で忙しく暮らす自分は仮の姿だったのだと、そんな気持ちになったのです。

 



***チリ多島海航海の様子は、aomi-storyでもお読みになれます。

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