-- これは実話です --
17話  水没した山々の海で

チリ多島海最南部、オカシオン入江に停泊中

big wave 大波

 
ある土地を何年も夢見て、到達するために努力と準備と苦労を重ね、ついに目標の地を前にしたとき、そこにはどんな情景が待っているだろう。

チリ多島海のマゼラン海峡を越えた<青海>は、あこがれの地、パタゴニア最南部に達していた。



<青海>を購入する前、横浜の会社で残業と休日出勤に明け暮れながら、この地をどれほど夢見たことだろう。

東京築地の海図販売店で求めた1枚の海図、米国防総省発行22ACO22032。一辺が120センチ近い大きな海図を会社の寮の床に広げて膝をつき、コックバーン水道、バスケット島、ステュアート島……、どれほど思いをはせたことだろう。

<青海>で日本を出発後、資金稼ぎのため寄港地でガーデナーとして芝刈り機を押しながら、砂漠の自動車整備工場でスパナを握って働きながら、この地をどれほど夢見たことだろう。

今、そのあこがれの地が、まぎれもなく自分の前方に続いている。こんなことがあるのか。こんな嬉しいことがあるのだろうか。それにしても、これほどすごい景色があるだろうか。

気も遠くなるほど大昔、地表が隆起を初めてアンデスの山々ができた。それらの谷間は氷河で深く浸食され、後に海水で埋まり、無数の頂上が島々に変わった。その水面をヨットで旅している。飛行機で山脈を飛ぶのと同じだった。

ある日停泊したオカシオン(Seno Ocasion)入江で、ぼくはサンフランシスコで買ったポリプロピレン製折りたたみボートを組み立てた。<青海>のデッキに置いた全長2.8m、厚さ10cmほどの平たい船体を開いて座席板を差し込み、2本のオールを取りつけ、非常時に備えて小さな錨とロープを積み込むと、入江の水面に漕ぎ出した。

湾の奥には、肌色の山々が大きくそびえ、さらに奥に断崖が切り立っている。太陽が雲間に見え隠れするたびに、それらの岩肌は不思議なことに色彩を次々と変えていく。

ひしひしと威圧感が伝わる壮大な景色の中、ぼくは山々を見上げて息をのみ、岸に向けてボートを漕いでいく。

入江の周囲には、切り立った崖が続き、上陸できそうな場所は見あたらない。だが、しばらく探すと一箇所だけ、少しなだらかな岩場が見つかった。ボートを岩の上に引き上げて、もやい綱を近くの岩に巻くと、ぼくは山の急斜面を登りだす。ふと足元から岩のかけらを拾うと、白っぽい鉱物の中に、黒い結晶が無数に光っていた。

やがて頂上に着くと、入江を見下ろした。さざ波の立つ海面に、白い<青海>がぽつりと小さく浮いている。

なんという景色だ。なんという場所に自分はいるのだ。このすさまじさ、人間を威圧する岩々と海の迫力は、いったい何物なのだろう?

背中のバッグからカメラを出すと、ぼくはファインダーをのぞいた。が、この迫力の数分の一さえも、写真には撮りきれないと知っている。どんな文章にも表現不可能と知っている。

だが、よかった。本当に来てよかった。日本を出るまで、そして航海中の日々も、決して平穏ではなかったけれど、日本でサラリーマン生活を続けていたら、このすさまじい景色と驚きには出会えなかったに違いない。地球がこれほど感動的な星であることを、知り得なかったに違いない。
 

Critical Advice to Sailors
足船でヨットを離れる際、特に無人の入江では、突然の気象変化や潮流等に備えて小型アンカー、ロープ、船外機艇では予備パドル、状況によっては小型無線機、非常食等の携行も考慮すべきである。「短時間だから」と思う気持ちが、事故を招く場合がある。



 解説


月刊<舵>20117月号より。

17話目は、チリ多島海南部、Ocasion湾付近の航海です。

南米南端ホーン岬を目指す<青海>は、チリ多島海を3か月以上も下ってきましたが、ある日Ocasionと呼ばれる小湾に向かいました。地図で位置を確認してみましょう。

ocasion map

マゼラン海峡のさらに南、南緯54度を超えた水域です。このあたりになると気候は一層厳しく、やはり山々には木々がほとんど生えていません。水辺に低い木々が少し生えるか、草が茂っているだけです。下の写真から分かるように、水路の岸には岩山が並んでいます。



それらの岩々の上を、太陽のスポットライトが刻々と移動していくのです。



これまで多島海を数か月も下るにつれ、しだいに景色は物凄いものに変わって来ました。雨の日が一年で三百数十日と言われる多島海中部の不気味な島々、マゼラン海峡の想像を絶する泊地の風景、しかしそれらにおとらず、このあたりの景色は物凄いものでした。

しかも、周囲には誰も住んでいないのです。荒涼として、寂しく、不気味で、もしかすると本来の地球の姿を目撃したような、不思議な体験だったのです。



上の写真が、今夜の泊地Seno Ocasionの入口です。前方の山々の間から進入していきます。 そろそろ日が落ち始め、雲が色づいています。風はほとんどなく、3.5馬力のエンジンで4ノットの速度が出ています。

帆はすべて下ろしてあります。黒いマストの右に見えるのは折りたたみ式手漕ぎボート(すでに組み立ててあります)、その右はマストを支えるワイヤーに巻き付けた赤青白三色のチリ国旗です。


ocasion yacht

やがて泊地に入っていくと、さらに日が落ちて、岩々は濃い紫色に変わってきました。と、そこに何か人工物のようなものが見えたのです。ヨットです。こんな人里離れた場所で、ヨットに遭遇するとは意外なことでした。


さらに近づいてみると、紫色に染まった岩山の前には、全長10m ほどのヨットが停泊中で、船尾には星条旗がはためいています。



「ハロー」と声をかけてみました。するとしばらくして男が顔を出し、フェンダーの準備を始めました。横付けしろというのです。

この湾には、実はチリ海軍が設置した停泊用のブイがあり、先客はそれにヨットをつないでいたのです。そのブイを、[青海]も一緒に使わせてもらうことになりました。

遊びに来いというので、早速キャビンを訪ねると、どうやら彼のガールフレンドも乗っています。彼等は米国東海岸を出て、大西洋を南下し、ホーン岬からチリ多島海を北上している最中でした。

彼等は、北欧の多島海も航海したといいます。チリ多島海との違いを聞くと、「あそこはどこでも人が住んでいるが、チリ多島海は無人地帯ばかりだ」とのことでした。

翌日、彼等が出発すると、湾内には[青海]だけとなりました。そこでボートを漕いで、写真を撮りに出かけたのです。



昼間に見ると、あの濃い紫色の岩々は、茶色や黄色、ときには肌色にも見えたのです。太陽の光の加減で、不思議なほど岩々は色彩を変えていくのです。



さらに遠くまで漕ぎました。左の岩山の下に[青海]が白く小さく見えています。こんなだだっ広い景色の中、人間は自分一人きりなのです。

湾内の岸辺は急峻で、上陸できる地点は限られているようでしたが、ボートを岩の上に引き上げて、山の斜面を登ってみました。

それは奇妙で不思議な体験でした。岩の転がる荒涼とした地面を歩くのは、まるで未知の惑星に来たようでもあり、所々に大きな岩が、まるで誰かが置いたように載っているのです。



頂上付近から、湾内の水面を見下ろしました。なんという景色でしょう。なんという凄まじい眺めなのでしょう。これほどの景色の中、自分一人だけが存在することが、まるで夢の中にいるようで、信じられない気持ちでした。

nieman-bay big photo

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もちろん、ぼくは分かっていました。これまで嵐や暗礁をいやというほど体験しながら、何か月もかけてチリ多島海を航海したからこそ、この素晴らしさと物凄さを実感できるのだと。

 



***チリ多島海航海の様子は、aomi-storyでもお読みになれます。

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