赤い廃墟
メルキョー群島内、ガンマ島のアルゼンチン基地。南極大陸および島々の海岸線のほとんどは氷に覆われており、基地を建設できる岩場はきわめて少ない。ここには補給船用小桟橋があるが、小型ヨットには高くて使いにくい。気温マイナス3度、湿度85%、気圧990hPa(全て年平均)
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冷え冷えとした灰色一色の空と海。
その境目に、島々の群れが浮かんでいる。
メルキョー(Melchior)群島と呼ばれる小島の集まりだ。
一つ一つの島は、厚さ数十メートルもの氷に覆われ、山盛り御飯のような白いドーム状に見えている。
海図に記載のない暗礁を警戒し、気を張り詰めて舵を取りながら、<青海>を島々の間に進ませる。南極の白と灰色ばかりの景色の中、やがて鮮やかな赤色の建物、そして数本の鉄塔が現れた。アルゼンチンの観測基地だった。
測深器の表示に注意しながら近づいて、小さなコンクリート桟橋に<青海>のバウを着けて舫いを取る。
桟橋に上がると、付近には灯油、重油、潤滑油のドラム缶が何本も置かれていた。どれも長期間放置されたのか、調べてみると中身の半分以上が水だった。
この基地には、実は誰も住んでいない。英国海軍発行の南極水路誌によれば、1947年に建設されたが、後に閉鎖されていた。
基地は赤く塗られた3棟で成る。母屋と発電棟、そしてもう1棟。ぼくは辺りをぐるりと歩いてみた。
建物は木造で古く、かなり痛んでいる。2階に続く屋外の木製階段は、すでに朽ち果てていた。鉄塔から鉄塔に張られたアンテナ線は、切れてだらりと垂れ下がっている。不気味な廃墟の雰囲気を覚えながら、ぼくは建物の角を回った。
と、大アザラシにばたりと出くわして目が合った。数メートルも離れていない。黒っぽい巨体は丸々と太り、見るからに強そうだ。
驚きと恐怖で、しばらく身動き出来なかった。が、どうやら相手も同じようだ。ぼくは視線と視線を合わせたまま、ゆっくりと後ずさりする。やがてアザラシの方も奇声を上げながら、海に向かって逃げだした。
廃墟の中を、さらに歩いていく。窓という窓は、板を打たれて塞がっている。板の隙間から中をのぞいても、ただの暗闇しか見えない。母屋のドアの取っ手をガチャガチャと何度も動かすが、どうやら鍵がかけてある。と、その時、壁に付いた小さな木箱が目に留まった。開けてみると案の定、鍵が入っていた。
ドアを開けると、中は暗くて薄気味悪い。が、思い切って踏み込んだ。横には休憩室らしい部屋、奥に寝室が続いている。各部屋にはスチーム暖房のゴツゴツした鋳物の放熱機が置いてある。医薬品庫には大量の薬や注射液のアンプルが並んでいて驚いた。さらに奥に進むと、風呂場、トイレ、台所、食糧倉庫などが続く。
食糧庫の棚には缶詰、スパゲッティ、乾燥タマネギ、粉末ほうれん草、そして古くなったソーセージだろうか、ミイラのような気味悪い塊が並んでいた。缶詰は皆、茶色く錆びている。10人程が、ここで暮らしていたのだろうか。
数時間で基地を離れた。広大で冷え切った白い世界に、ぼくは再び戻っていく。
だが、本当は行きたくない。荒涼とした景色の中、基地は唯一の人間臭さだった。そこを離れるのは、つらくて寂しいことだった。が、とどまり続けるのは危険なのだ。基地の前は北風の嵐に対し、全く無防備な地形だった。
安全な停泊場所を求め、<青海>はメルキョー群島の中を移動する。暗礁を警戒して身を乗り出すように海面を見張りながら、島々の間をしばらく進み続けると、左右の白いドームが急に近づいて、海は細い水路に変化した。海図で今日の停泊候補地に決めたのは、さらに奥の狭い湾だ。が、ほどなく目前に展開した光景は、全く意外なものだった。
青白い氷の絶壁が、湾の三方を囲んでいる。しかも所々にヒビが入り、今にも崩れ落ちそうだ。数トンもある氷の塊が、一つでも船体を直撃したら、<青海>は瞬時に破壊されてしまうだろう。
海図を見ても湾内は情報不足で、氷壁の存在どころか水深の記載もない。エンジンのアクセルレバーを微速に合わせ、<青海>を注意深く前進させていく。
突然、ガラスのように透明な薄緑の海水を通し、白っぽい海底が見えた。次の瞬間、船底から鈍い衝撃が響くと同時に、ぼくの体は前に転びそうなほど傾いて、<青海>は完全に停止した。
「座礁だ!」