-- これは実話です --
アザラシの氷塊
big wave 大波
メルキョー群島内に停泊中。氷壁から崩落した浮氷に海面は覆われている。この程度の氷では、船体表面をステンレスで補強した<青海>の航行に支障はない。デッキ、セール、ゴムボートには、うっすらと雪が積もり、浮氷も雪をかぶって鮮やかに白い。

南極沿岸に着いて5日目、危機一髪で浅瀬を脱した<青海>は、波風から守られた平和なメルキョー群島で、数日の休息を取っていた。

氷のドームに囲まれた水面で、朝から船内整理にとりかかる。海上での故障や事故に備え、<青海>には数々の道具や材料を積んである。重い鉄の万力や金床、多量の木材、FRP用ガラス繊維や樹脂、各種の電子部品、医薬品から歯の治療用具まで、24フィートの小さな船体に、所狭しと積んである。

だが、物があまりに多すぎて、しまう場所がない。整理というより、荷物を左右に動かす作業のようだった。

一応の片付けが済むと、ゴムボートを水に下ろし、湾の岸まで真水を汲みに行く。島を覆う厚い氷が溶けて、高さ4~5メートルの岩の上から細い滝となって落ちている。

大きなロートで水を受け、ポリタンクに流し込む。だが、岩から落ちる場所が一定しないため、時々頭からザアーと水をかぶってしまう。

「傘を持ってくればよかった」

南極で傘をさした初の人間となったかもしれない!?

満杯のポリタンクを<青海>に運ぶと、灯油コンロで湯を沸かし、久しぶりに体を洗う。ブエノスアイレスを出て以来、実に1カ月ぶりだ。が、これは短いほうで、海上で3カ月近く、体を洗えなかったこともある。

全身がさっぱりすると,次は余った水でソウメンをゆでた。出国から5年近くが過ぎて、日本の食材はもちろん尽きていた。そこで冷やしソウメンにして食べたのは、日本人にも区別できないほどソウメンに近い、アルゼンチン製の極細スパゲティだった。

メルキョー群島に着いて4日目の早朝、寒さの中で船体をたたく異常なゴトゴト音に目覚めた。驚いてベッドを出ると、ハッチを開けて外を見た。

日の出前の紫にかすむ冷気の中、船体は一面の浮氷に囲まれていた。風向が変わり、島々から崩れ落ちた氷が運ばれて、波とともに船体を打っているのだ。風の変化と同時に気圧も上がり始めていた。明日には出発できそうだ。

その日の夕方までには、船体を取り巻く氷はほとんど消えていた。が、気がつくと、差し渡し5メートルほどの青白い氷塊が、<青海>の近くを流れていく。上には黒い物体が載っている。双眼鏡を握ってよく見ると、昼寝をしているアザラシだった。やがて氷は遠く流れ去り、陽が落ちると闇が訪れた。

驚いたことに,さっきの氷がアザラシを乗せたまま、引き返してきた。ライトで海面を照らすと、船首を岸につなぐポリプロピレン製係船ロープの途中に引っかかっている。そればかりか、氷塊は長さ60メートルのロープを引いて、どんどん動いていくのだ。

南極で使う係船用ロープは、水に沈むナイロン製よりも、水に浮く軽いポリプロピレン製が適しているだろう。氷の体積の約9割は水面下にあるため、ロープに引っかかる可能性は、水中の方がはるかに大きいからだ。

しかし、この氷塊は水面からの高さがありすぎた。船首の係船ロープをとてつもない力に引かれた<青海>は、ついに船尾の錨を引きずって動きだした。このままではロープが切れるか、船尾の錨が海底から外れてしまう。

あわてて船首のロープをビットから外すと、緩めたり引いたりを繰り返し、氷から外そうと試みる。が、ロープは氷に引かれて水中に潜り、何かに引っかかっているようだ。

ただちにゴムボートを水に下ろして飛び乗ると、アザラシの載った氷塊の横まで漕ぎ寄せる。厚いゴム手袋で水中のロープをつかみ、氷の突起から外して宙に高く持ち上げ、ロープの下に氷塊をくぐらせる。

急いで<青海>に戻ると船首に立って、ゆるんだロープを両手で引き寄せる。が、いくらたぐっても、船体が前に進むばかりで、ロープは少しも張らなかった。船尾の錨が外れ、船体が流れているのに違いない。

このままでは風に運ばれ、<青海>は岸の岩に衝突してしまう。

あわててエンジンを回すと、大急ぎで船首の係船ロープと船尾の錨を回収し、岸を離れるように舵をきる。

海水は冷たく手指にしみた。水から引き上げたロープは、たちまち凍りついてバリバリになった。

が、この程度の出来事は、その後に南極で体験する試練の、ほんの始まりでしかなかったのだ。


 解説

月刊<舵>201210月号より。



氷塊に引かれて錨(いかり)が外れ、ひどい目にあった話です。

前回で読まれたように、南極のメルキョー群島で停泊地を探す <青海>は、狭い湾内で座礁してしまいます。しかし幸運にも浅瀬をどうにか離脱すると、広い湾に移動して、やっと無事に停泊できたのです。

melchior island
下の写真が、停泊中の<青海>です。船首の右の海面をよく見ると、ロープが右方向に走っていることに気がつきます。陸から船首まで長いロープを張っているのです。船尾は錨を打って固定してあります。下右の写真は、ゴムボートで上陸して飲料水を採っているところです。氷河の溶けた水が、岩の上からしたたり落ちているのです。大きなロート(写真で緑色)で水を受け、ポリタンクに流し込みます。

Melchior island small waterfall

ヨットを陸につなぐロープは、通常はナイロン製を使ってたのですが、南極では特別にポリプロピレン製を使いました。その理由は、水に浮くからです。以下に各種ロープの特徴をまとめました。

ヨット用 ロープの種類 type of ropes

ロープが水に浮くということは、南極では特別な意味を持っています。以下の図を御覧下さい。赤線は、ナイロンロープ等、水に沈むロープで船首を陸につないだ場合です。ロープが短い場合は問題ありませんが、数十メートルにもなると、どうしても途中で水に沈んでしまいます。そこに氷が流れて来たらどうでしょう? 氷の比重を 0.92、海水比重を1.025とすると、図のような直方体に近い氷では、水面上の高さの約9倍が水面下にあることになります。仮に水面上10cmとすると、水面下は90cmです。このような氷が流れてきた場合、水に沈むナイロンロープ(赤線)では、図のように引っ掛かってしまうでしょう。
mooring in the Antarctic
しかしながら、 図の青い点線、水に浮くポリプロピレン製ロープならどうでしょう? 氷が動くにつれてロープが氷の表面を滑って持ち上がり、氷はロープの下を通過していくかもしれません。そして実際、その通りでした。小さな氷はいつの間にかロープをくぐり抜けていったのです。

とはいえ、残念ながら、すべての氷がそうではありませんでした。ある日の夕方過ぎ、アザラシの載った比較的大きな氷塊がロープに引っ掛かかったのです。ものすごい力で<青海>は引かれて、船尾の錨が海底から外れ、闇の中で大変な目に遭ったのです。


ロープに引っ掛かった氷と同程度のものが、以下の写真です。

やはり、アザラシが寝ていますね。


これもアザラシですが、皮下脂肪が多いためか、腹にシワがよっています。


これは<青海>の上に立って水面を撮ったものです。アザラシの水中の姿勢が写っています。


これも<青海>の上から撮ったものですが、氷の浮く水面に鼻先を出した瞬間です。

次に、南極で見られる主なアザラシの種類を説明してみましょう。写真はwebから取得したもの、説明は英国海軍発行南極水路誌の記載を元にしています。

( Image by Pismire  CC BY-SA 3.0)

上の写真は、南極で最もポピュラーと言われるカニ食いアザラシ(Crabeater seal)です。長さと体重は、それぞれ最大2.5mと225kg。顔は犬のように鼻の部分が突き出しており、体の色はシルバーグレーやクリーミーホワイト(季節によって違うのかもしれませんが、私が見たのはもっと黒っぽかったです)。前足を広げて、氷の上を泳ぐように素早く移動するそうです。

Ross seal

(image: public domain)

これはロスアザラシ(Ross seal)です。体長2mほどで、犬のような鼻部の突き出しはほとんどありません。歯はとても小さいが、鋭く尖り、イカ等を食べる。威嚇すると、ノドを伸ばして特徴のある音を立てるそうです。写真の顔の部分は、まるで魚ですね。

Elephant seal

( Image by Liam Quinn  CC BY-SA 2.0)

これはゾウアザラシ(Elephant seal)と呼ばれ、アザラシの中では最大の種。雌は体長3.5mで1000kg、雄は6mで4500kgに達するそうです。ゾウみたいな体重ですね。写真は雌のようですが、雄は鼻が長いようです。魚やイカ等を食べ、南極ばかりではなく北半球にも住んでいます。

Leopard seal

( Image by Papa-Lima-Whiskey  CC BY-SA 3.0)

これはヒョウアザラシ(Leopard seal)で、南極のみに住むアザラシの中では最大。体長約4m、体重約450kg で、顔はヘビに似ているとも言われます。通常は単独行動。魚、ペンギン、しばしば若い他のアザラシを食べる。氷上を速く移動するが、カニ食いアザラシよりは遅いそうです。ちょっと怖くて、近づきたくありませんね。実際、人身事故も起きているようです。

weddell seal

( Image by Samuel Blanc  CC BY-SA 3.0)

これは ウェデルアザラシ(Weddell seal)です。体長3m、体重500kg程です。体型は丸々と太って見え、人が近づくと、前足の片方を上げながら氷上を横に転がって逃げます。雌は雄よりも少し大きいようです。

南極を航海中に見たのは、大半がカニ食いアザラシだったと思います。でも、一番近づいて詳しく観察できたのはウェデルアザラシで、なかなかカワイイ顔でしたよ。


このページの白い背景は、南極大陸の雪面写真から作成しました。

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