精一杯の努力と時間を尽くし、準備を済ませ、これで安心と思っても、いざ本番になると、不安がこみ上げる場合があるだろう。
氷の海に突入したとき、ぼくは不安と恐れの真ん中にいた。
*
南極に着いて19日目、<青海>は南緯65°線を通過して、谷間に続く狭水路、ルメール水道の入り口に達していた。
双眼鏡で前方を調べると、谷底に続く川のような水面は、途中から氷で埋まり、通過できる隙間はない。でも、無数の氷塊が密集して見えるのは、離れて眺めるからだろう。近寄れば、氷と氷の間が開くに違いない。帆を降ろすと、エンジンで谷間の水路を走りだす。
ところが、近づけど、近づけど、前方の氷に隙間は少しも見えてこない。ついに<青海>は、密集する氷の縁に突き当たった。
長さ数十センチの透明な氷片、ドラムカンほどの白い氷、数メートルを超す青白い氷塊、ぎっしりと谷間に詰まって、進路を完全にふさいでいる。
だが、引き返すつもりはなかった。ぼくは心を決めると、小さな氷ばかりの所を探し、船首を慎重に突き入れた。
すると次の瞬間、すさまじい摩擦音と衝突音に包まれた。ガラスを割ったように鋭い無数の氷片は、絶え間もなく船首に当たり、船腹をえぐり取るようにこすりながら、次々と船尾に流れていく。数百キロを超す氷塊が衝突するたびに、<青海>とぼくは激しく揺さぶられ、ガラガラという金属音が、アルミのマストに鳴り響く。
南極航海に備え、船首は4ミリ厚のステンレス板で覆い、船首から最大ビーム幅までの船底はステンレス製網状Expanded MetalとFRPで包んであるが、今にも穴が開きそうで気が気でない。
不意に、<青海>は氷にめり込むように停止した。ぼくはアクセル・レバーを前に倒し、船尾の排気口から黒煙が出るほどに、エンジンの回転を上げていく。
ブエノスアイレスの町を何日も探し回り、やっと見つけた寒冷地用エンジン・オイル。この品質不明の低粘度オイルが、どこまでの回転に耐えるのか? 限度を超えれば、ピストンが焼きつくかもしれない。
いや、その前に高速回転するスクリューが、氷に当たって壊れれば、<青海>は氷原の中で航行不能になるだろう。が、それでも、ともかく、なんとか前進しなくては。
ふと、前方の白い海面から空に視線を上げたとき、水道の左右に千メートル前後も切り立つ山々の、息をのむほど鮮烈な映像が、両眼に鋭く飛び込んだ。急峻すぎて雪も積もらない荘厳な峰々。だが、斜面を縦横に交差する細いくぼみに雪が溜まり、黒い岩肌は白く繊細な網目模様に包まれている。
極限まで澄んだ冷気の中、絶壁状の山々は神々しいほどに、美しくも人を威圧する迫力で立っていた。
*
南極航海に限らず、船体破損による浸水に備えなくてはならない。ハルのハードスポット(構造上、周囲に比べて力の集中する個所)の点検改造、浸水時浮力を増すための発泡材や水密隔壁の検討、木材や速硬化水中パテの用意、船体構造等の吟味も必要である。<青海>が南大西洋を航行中、波に打たれてハルが凹み、デッキとの接合部が1.7mに渡って開いたことがある。
月刊<舵>2010年8月号より。
*
*