悪夢の小湾 (2)
ドリアン湾に停泊中の2艇。マストの高さから、艇のサイズの違いが分かる。手前の雪面に横たわるのはウェデルアザラシ。頭を持ち上げ、こちらを警戒している。撮影距離は数メートルで、これ以上近づくと雪面をロールするようにして逃げる。
緯65度に間近いドリアン湾で、2隻のヨットは大きく揺れていた。北風がさらに強まり、湾内にうねりが打ち込み始めていたからだ。
腕時計の液晶表示は、すでに午後10時を過ぎている。でも、窓の外は薄明るい。
「あれ、もうこんな時間だ。そろそろ帰って寝ようかな。まだ7時ころと思っていたよ。南極の白夜だね」
歓談中のフランス艇を急いで後にすると、ゴムボートも吹き飛びそうな風の中、十数メートル横に並んだ<青海>に向けて白波の上を全力で漕ぎ進む。やっと帰り着いた船内は、彼らの艇と違って寒く、狭く、貧しくて、おいしい料理も何もなかった。
やがて南極の白い景色が、真っ黒い闇に変わった。船首を向けた沖の方向から湾に吹き込む風は、さらに勢いを増し、船室の気圧計も台風並みの970ヘクトパスカルを下回った。烈風の立てる悲鳴に似た轟音が、<青海>の船体を包んでいる。
これほどの強風は久しぶり、いや、初めてかもしれない。船首の錨が滑れば、たちまち湾の岸まで流される。船尾から岸に70メートルのロープを張ったように、船首から沖の小岩に長いロープを。――が、強風と、闇と、うねりの中、すでにゴムボートで作業は不可能だった。
朝までの無事をひたすら祈ると、人を威嚇するような烈風の叫び声に耐えながら、大揺れのベッドで仮眠を始めていた。ところが夜半過ぎ、測深機の警報ブザーが鳴り響いた。回転ネオン表示を見ると水深3メートルもない。驚いて壁のコンパスをチェックすると、北を向いていた船首が、いつのまにか西を向いている。錨が滑り、船体は横向きの姿勢で流されているのだ。
夢か現実かも分からずに、あわてて船室を飛び出した。が、自分の両手も見えない完全な暗闇の中、<青海>の位置は見当もつかない。あわてて24万カンデラのサーチライトを握り、左舷の闇に向ける。と、岸は70メートル離れていたはずなのに、目の前に黒岩と雪の海岸が照らしだされた。
驚いてライトを右に振ると、横に並んでいたはずのフランス艇が、沖に小さく見える。<青海>は本当に流されているのだ。
ほどなく測深機の表示は1.5メートルを指した。と思う間に、岩の衝撃が床下から響いた。船体は打ち寄せる波に持ち上げられ、次の瞬間には落とされ、ガツン、ガツンと船底を何度も岩に打ちつける。猛烈な横風を船腹とマストに受けた<青海>は、吹き倒されるように大きく傾いて、床に立っていられない。
「もはやどうしようもない」
いまに、真っ暗闇の岩場に押し倒され、氷点下2度の海水が船室に入ってくるだろう。夜が明けて嵐が収まれば、フランス艇に引いてもらい、岸を離脱できるだろうか。いや、おそらく無理に違いない。夜明けまでには岩々の角が、船底を打ち破ってしまうだろう。
「そんなことが起きてたまるか。この危機をなんとか、どうにか克服しなくては」
セルモーターもない3.5馬力の小さなエンジンが、これほどの強風の中で役立つ見込みはないけれど、ともかく試してみなくとては。
が、寒さのためスタートしない。片手で握った始動ハンドルは、ぐるぐると空転するばかりだ。
常に念入りな点検整備を欠かさない<青海>のエンジン、心を込めて分解整備を続けてきたエンジンが、スタートしないわけがない。急いで数ccのベンジンを吸気口に注ぐと、全身の力を腕に込め、重い鉄のハンドルをさらに速く回してみる。息がきれるたびに休みながら、2度、3度、4度、夢中で始動を試みる。
ついに5度目、エンジンは爆音をたててスタートした。船室からデッキに走り出て、沖の方向に舵をきる。
が、<青海>は少しも動かない。やはりエンジンの力が弱すぎる。エンジンが壊れるのを覚悟しながら、限界まで回転を上げてみる。
すると数分後、船底を打つ岩の衝撃の間隔が少しずつ延び始め、つにい止まった。<青海>は強風とうねりに打ち勝って、ゆっくりと岸を離れ始めている。
でも、この真っ暗闇と嵐の中、いったいどこに行けば助かるというのか。
(続く)