南極大陸で最初に目撃したのは、赤錆びた鉄骨やトタン板の重なる、スクラップ置き場のような場所だった。焼けた基地の母屋に違いない。
ここアルミランテブラウン基地は、アルゼンチンの科学ステーションとして活動していた。しかし、ある日のこと、基地で働く医師に、もう一年の南極滞在が言い渡された。それを不満に思った彼は、どうにかして帰国を果たそうと、診療室のX線装置をショートさせ、基地を焼いたということだ。
全焼した母屋の周囲には、倉庫や発電棟のような建物が、全く無傷で残っている。その一つに入ってみると、照明がつかずに中は暗いが、工作室のようだった。昨日まで人がいたように、機械や工具類がよく手入れされ、整然と配置されていた。
焼け跡から200mほど離れた岩場には、青白い氷壁をバックに、赤塗りの小屋が鮮やかに映えて立っていた。入口のドアに近づいて、真鍮製の丸いノブを回してみる。が、どうやら錠がかけてある。
どこかに鍵があるに違いない。小屋の周りを探してみると、壁に小さなガラスビンが釘で固定され、中に鍵が入っていた。
恐る恐るドアを開けると、目の前に玄関のような小部屋が現れ、スパゲティーとマカロニの大袋が、いくつも棚に詰まっていた。下段には一枚のメモと一緒に、ポーランド製瓶詰ジャムやビスケットの箱も並んでいる。メモの内容では2か月程前の真夏の時期に、ポーランド隊が小屋を訪れ、少量の食料を置いたらしい。
次のドアを開けてメインルームに入ると、ガラス窓から差す夕日で、部屋中が気持ちよく明るい。中央に食卓のような四角いテーブル。壁の棚にはラベルがスペイン語のチョコレート、缶詰、雑誌が並び、奥に小さな台所、2段ベッドも見える。母屋が焼けたとき、この避難小屋で、彼らは救助船を待っていたのだろう。
ふと思いついて、雑誌や缶詰を手に取ると、一つ一つ調べてみた。どれも7年前の製造日付で、なぜか新しいものは一つもない。基地が燃えて放棄されたのは、2年程前のはずなのに。奇妙だった。この湾内では、時間の流れが狂っている。それとも、ぼくの頭のほうが……。広大な未知の大陸の片端に建てられた、かすかな人の気配もない小屋の中、ぼくはひとりぼっちで立ちつくし、目まいのような奇妙な心地に襲われた。
20分ほどで外に出て、海岸の岩場をゴム長靴で踏んだとき、夕暮れの赤味がかった弱々しい太陽が、パラダイス湾一面を夢の映像に変えていた。
「なんということだろう。これほど美しく神秘的な景色が、この世に存在しているとは」
眺めは、まさにパラダイス。磨きあげた巨大な銀盤のように光る海、その上に点々と漂う大小無数の氷と氷山。広い水面を取り巻く氷の山々は、極楽浄土のように荘厳な光を一斉に放ち、神々しい姿を銀盤の海に反射する。19世紀に湾を発見した人達も、同じ光景を目撃し、「パラダイス湾」と名付けたのか。とてもこの世の眺めとは思えない。
だが、遮る物のない広々とした水面に、湾口から風が吹き込めば、一つの重量が数百キロから数トンを超す氷塊が、湾の奥まで無数に寄せられて、船体を隙間もなく囲んで閉じ込める。湾内を潮流に乗って動き回る氷山が、停泊中の<青海>に接触すれば、鋭い角で船腹を切り裂くかもしれない。
氷の怖さを思うとき、大小無数の氷塊が漂う湾内、岩のように危険な氷が動き回る不吉な景色、何年も求め続けた目的地の眺めは、「パラダイス」という名の地獄絵のようにも見えていた。
ゴムボートを漕いで<青海>に戻ると、デッキに腹這いになって両手を海面に伸ばし、スイカほどの氷を拾い上げる。ツルハシを握ると、デッキに置いた氷に向けて頭上から振り下ろす。氷河の氷は予想外に硬く、まるでガラスの塊を砕くようだった。
割った氷を鍋に詰めると、船室の石油コンロの上にのせ、夕飯用の真水をつくる。氷の小さな塊は、溶けるにつれて上下のバランスを失い、クルリクルリと面白いように回転する。氷山に近づくと危険な理由も、これを見ると簡単に理解できた。
船室の外では、ときおり遠雷のような音が鳴り響き、大量の氷が山々から海に崩れ落ちる。その鋭い無数の氷塊が、潮に運ばれてゴツンと船腹に打ち当たる、一瞬ドキリとして身構える心臓に悪い音。氷に密閉された、もしかすると数万年も昔の空気が、次々と水中に弾け散る、意外に大きなピチピチ音。小さな<青海>の船体は、いくつもの音色に包まれている。
パラダイス湾一面に、やがて青黒い夕闇が降りると、船体を取り巻く水面には、薄氷のフィルムが張りだした。南極では、すでに冬が始まりかけている。一日も早く南極の海を出なければ、<青海>は氷に閉じ込められてしまうだろう。
可能なら、パラダイス湾に数日停泊し、南極大陸をもっと歩いてみたかった。山と海と氷の絶景を、もっと堪能したかった。しかし、ここに長居はできないのだ。
翌朝、その美しくも恐ろしい湾を逃げるように立ち去ると、数日前まで停泊していたヴィーンケ島の、ドリアン湾に引き返した。
池のように小さなドリアン湾では、暗いほど濃い青空の下、金色の陽射しが無風の空気中に無音で降りそそぎ、氷の山々をまぶしく光らせる、絵のような時間が流れていた。頭上の大空、紺青の海、白銀の山々を描いた巨大ドームの内側を、ひとりぼっちで見回すようだ。
「これほどの景色に巡り逢えた人間は、地上に一握りもいないだろうな」
その完璧な静寂を破り、ときおりペンギンの声が響く。湾の中央に泊めた<青海>から、岸を双眼鏡で眺めると、無数の白い腹が日を浴びて、岩場の上に並んでいた。近くの水中に目を落とすと、陸ではヨチヨチ歩きの彼等が、飛行機のように両翼を広げ、魚を追って水中を高速で飛んでいる。
炊事用の真水を求め、ゴムボートを湾の岸辺に漕いでみた。万年雪の斜面を下る水流は、すでに固く凍っていた。氷の薄い場所を探して穴を開けると、コップで何度も水を汲み、ガーゼで濾してポリタンクに注ぎ込む。
数日前、この白い斜面を歩いたとき、流れは凍っていなかった……。急いで南極を出なくては、海面も厚く凍結し、脱出は全く不可能になるだろう。
が、それでも、このまま帰るつもりはなかった。南極大陸上陸を果たした今、南極沿岸をさらにどこまで<青海>が南下できるのか、確かめようと決意した。
月刊<舵>2013年06月号より。