-- これは実話です --
「美しさ」という資源
big wave 大波
南極の景勝地として名高いルメール水道を北上中。 無風の日には、氷の浮く鏡のような水面に山々が反射して、絶景を見せる。水道内は水深100~500m程度と比較的深く、岸辺を除いて危険な岩は少ないと言われ、船舶の通路としてよく利用される。

午前9時、<青海>はエンジンの暖機運転を済ませると、英国基地の建物が並ぶガリンデス島を後にした。岸では作業中の隊員数名が、手を振りながら見送った。

やがて2度目に後ろを振り向くと、基地の母屋も小屋も発電棟も、広大な海、空、氷の景色に、上下左右からつぶされて、砂粒ほどにも見えていない。南極の白い光があふれる大気の中、ぼくはひとりぼっちになっていた。

北上する<青海>がルメール水道の口に達したとき、峡谷の底に続く静まりかえった水面は、鉛色の空と左右の険しい峰々を反射して、完璧な水鏡(みずかがみ)になっていた。上下対称な景色に挟まれた浮き氷も、今日はまばらだ。

これならば、夕方までに40マイル(74km)ほど北のアンベール(Anvers)島に着けるだろう。絶壁状にそびえる山々の威容を見上げて、ため息をつきながら、エンジンで谷底の水道を走りだす。

が、およそ2時間後、目前に迫った出口から、猛烈な向かい風が吹いてきた。荘厳な山々を映した水鏡は、たちまち破片となって砕け散り、水道内は白波ばかりに一変した。無数の波頭に紛れて上下する、鋭いガラス状の氷片を、注意深く避けて舵をとる。

気がつくと、<青海>の背後に平たい丘のような氷山が立っている。振り向くたび、幅と高さをどんどん増している。水面下の海流に運ばれ、風と反対方向に移動しているのだ。

氷山から急いで逃げようと、アクセルレバーを前に押す。が、だめだ。あまりにも向かい風が強すぎて、思うように速度が上がらない。

周囲が垂直に切り立つテーブル状氷山は、振り向くたびに距離をどんどん縮め、ほどなく見上げるほど間近に迫ってきた。青い蛍光色の壁に砕ける白波の一つ一つまで、くっきりと鮮明に見える。波で大きく上下する船体が、少しでも氷に接触すれば、鋭い角でたちまち破壊されるだろう。

エンジンの回転をさらに上げ、懸命に氷壁から離れようと試みる。が、やはりだめだ。これほどの烈風に逆行できるはずがない。

ぼくは深呼吸すると、ふと思いついて、逃げるのをやめた。と同時に船首を横に向け、壮大な氷壁の前を全速力で平行に駆けていく。その間にも、どんどん迫る氷の高い絶壁に、今にも接触しそうになりながら、氷山の端に達すると一気に舵を切り、後ろ側に回り込む。

「ふう、危機一髪で助かった」

だが、一安心したとき、谷底のルメール水道内を吹く風は、異常な強度に達していた。水面の所々には竜巻状の水煙が立ち昇り、山々からは雪が吹き飛んで数百メートルもの壮大な白煙の筋をひく。エンジン出力を最大にしても、子供が歩くほども進まない。

「どうしよう、引き返そうか。いや、あと一息、もう少しだけ頑張ろう。運よく風が収まれば、夕刻には目的地に着いて休息できるのだ」

でも、おかしい。険しい山々の切れ目を通して見えていた、水道の出口の先の島々が、いつのまにか消えて、灰色一色のスクリーンに変わっている。水道の左右にそびえて並ぶ岩と氷の峰々も、ずいぶん霞んでいる。ゴーグルが曇ったのか。いや、顔から外しても同じだった。ということは、前方の視界が悪化している。

「あっ、進行方向から吹雪が来るのだ!」

もはや前進は決定的に不可能だ。それどころか急いで引き返さないと、雪に視界を奪われ、後退すらもできなくなる。

「よし、戻るぞ」かけ声とともに大きく舵をきり、船首を180度回転させる。と同時に、水道の左右にそびえて並ぶ急峻な山々の輪郭が、水晶のように透明な空気を通し、両眼を痛いほど強く刺激した。頂上の険しい黒岩、斜面の微細な突起や凹凸、麓に崩れた青白い氷の質感まで、手に取るようにクリアーだ。山々の細密画を映した巨大スクリーンが、目の前に張られているようだ。

吹雪で水道の北側は霞んでも、引き返そうという南側の山々の輪郭は、網膜を傷つけそうなほど鮮鋭だった。「美しさ」という価値の計り知れない資源が、そこには無尽蔵に存在するかのように。


 解説

月刊<舵>20139月号より。



南極を脱出しようとして失敗した話です。


**詳しい解説は、後日掲載予定です**



このページの白い背景は、南極大陸の雪面写真から作成しました。

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