ルメール水道内で針路を反転した<青海>は、追手の烈風に帆をはち切れそうに膨らませ、峡谷の底を全力で駆け戻る。
雪の白い津波は、<青海>の後を追うように谷間をどんどん埋めながら、水道の左右に並ぶ峰々を呑んでいく。
20分前に折り返した地点も、すでに姿を消していた。雪嵐に追いつかれたら、白一色に包まれて、進路をたちまち見失う。「急げ、ともかく急げ!」
<青海>が英国ファラデー基地の島に戻るのと、雪が追いついたのは同時、いや、正確には雪が勝っていた。でも、雪に抜かれたとき、目指すガリンデス島は声が届きそうに近かった。
島の安全な入江に駆け込むと、仮の錨を下ろし、ゴムボートを急いで岸に漕ぎ着ける。猛吹雪の中、<青海>をつなぐワイヤーとロープを肩にかつぎ、手足を使って入江を囲む丘に這い登る。
次々と吹き寄せる雪煙に、両手の指は白く消え、目鼻をふさがれて呼吸できないときもある。突風が襲うたび、急斜面の突起をつかんだまま宙に体が浮き上がり、危うく海に転落しそうになりながら、2本のロープを入江の左右の丘に留め、大急ぎで<青海>に逃げ戻る。
1時間がかりの作業を終えて腕時計を見ると、すでに朝の出発から10時間が過ぎ、全身は重いほど疲れ、気圧は20ヘクトパスカルも下がっていた。だが、それだけでは済まなかった。翌朝には945ヘクトパスカルという、未体験の領域まで降下したのだ。
南極脱出の試みは、第1日目に挫折した。天気を1週間も待った末の、敗北だった。好天は再び訪れるのか。このまま嵐が続けば、南極沿岸を一歩も出られずに冬が来て、海は厚く凍結するだろう。
10日前に南半球の秋分が過ぎて以来、昼夜の長さが逆転し、昼は週50分の割合で縮まり、日増しに夜の闇が南極を包み込んでいた。南極沿岸を運よく脱出できたとしても、南米まで続くドレーク海峡で、レーダーのない<青海>が氷山に衝突する確率は、夜の長さとともに増えていく。
粉砂糖のように細かな雪が、どんどん降り積もる<青海>の中、氷点の迫った船室で所持品をまとめた。
5年の期限切れが近いパスポート、残り少ないトラベラーズチェック、思い出がぎっしりとページに詰まった数冊の日記帳、南極大陸で採った記念の石。命より大切かもしれない、でも、資金不足で満足に買えなかった写真のフィルム。それらを背負いバッグに詰めておく。いつでも持ち出せるように、いや、たとえ自分が助からなくても、写真と日記は残るようにと。
1年前、南極航海に初挑戦し、マストを折って漂流したときでさえ、命だけは助かるものと、おそらく心の隅で信じていた。でも、今は何もかも分からない。海のことは全く分からない。もはや幸運を祈ることしか。
明日でも吹雪が弱まれば、400m先のファラデー基地までゴムボートを漕いで、なんとか頼んでみなくては……。
翌日の晩、母屋の玄関で迎えてくれたのは、ベースコマンダー(基地の責任者)を務める若い物理学者、マーティンだった。越冬態勢に入って24名の隊員が10名に減ったから、廊下も食堂も休日の学校のように静かだった。
暖かい休憩室のソファーに腰かけて、マーティンが勧める夜食のハンバーガーに手を伸ばす。雑談を続けながら、話のチャンスを探っていく。
「南極で2年の任期を過ごす間、世の中はどんどん移り変わるでしょう? 社会の進歩に取り残されて、帰国後に困りませんか?」
「世間では常に色々なことが変化して、そのスピードは速い。でも、目先だけのことさ。人間社会の本質的な事柄は、数世紀もかけて少しずつ変わるものだ」
ぼくは一瞬驚いて、彼の顔を見つめた後、話を冬の暮らしに向けていく。
「補給船が再び来るまでの半年間、外部から隔離された狭い基地内で、朝から晩まで同じメンバーと顔を突き合わせて暮らすのは、特殊な体験に思えるのですが」
「そう、色々な人から、さまざまなことを学ぶよ」
「……」
「つまり、自分自身についてね」
会話が少し途切れた後、さらに質問するように、ぼくは思い切って話を切り出した。
「冬の間、この基地は人手不足では?」
すると心を見抜いたのか、マーティンは唖然とした顔で、ぼくを見た。
月刊<舵>2013年10月号より。