外は相変わらずの吹雪だ。
視界が悪く、氷山が急に現れないかと恐れている。
太陽は雲裏に時折見えるばかりで、頼りない。このまま南極という未知の世
界に入ると思うと、不安がつのる。これから何が起こるのか?
周囲の海面では何頭ものイルカが船底をくぐって縦横に泳ぎ、波間にジャンプするたびに見せる純白の腹が、冷たい灰色の海によく映える。今まで見たことのない種類だった。
ここ数日、気圧は970hPaから1010hPaに急上昇し、風力は3~4に落ちてきた。
それでも小さなストームジブを揚げたまま、わずか3ノットで走っている。大きな帆を張
れば速度は増す。が、突然に嵐が始まり、前回のように転覆するのではないか――
恐怖心がセール交換を妨げていた。
1年前、南大西洋で転覆してマストを失い、命からがら陸に戻った〈青海〉は、修理と念入りな点検整備を済ませ、再び南極を目指して進んでいた。アルゼンチンの首都ブエノスアイレスを発って約1カ月、南米と南極を隔てるドレーク海峡をほとんど渡り終え、白い大陸は目前に迫っていた。
南氷洋の夏の夜は、やはり真っ暗にならず、常に水平線が見えていた。今夜も氷山の見張りだ。連日の白夜続きで疲
れていた。寒い。船内温度は摂氏2度。真っ赤な登山用防寒服上下を着込み.カイロ
のベンジンに点火する。
スライドハッチから頭を出して、進行方向を見張りながら、
時々、うとうと眠ってしまう。あわてて目を覚ますが、時計を見ると5分ほどしか過
ぎていない。同じ姿勢の連続で,やたらと肩がこる。
やがて夜明けが近づいて、灰色と黒
ばかりの空と海に、青っぽい色彩が加わった。ほどなく朝日が雲裏に昇り始める
と、空は灰色と紺とオレンジのまだら模様に変わっていた。その下に広々と続く海原には、南極沿岸の島々が、ボツン、ボツンと壮大な姿を
見せてきた。
氷に覆われた白銀の島々は日を浴びて、その一つ一つが、こうこうと光を空に放出するようだ。中には標高2,000メートルを超す島もある。「ああ、あの輝く斜面をスキーで下りたい」あまりにもスケールの大きな島々と海の景色は、なぜか初めて見る心地がしない。不思議だった。いつか夢の中で見たのだろうか?
南極諸島の中で特に有名なのは、デセプション島だろう。この島を発見した米国人のパーマー船長は、19世紀初頭、
乗組員とともにアザラシの毛皮を求めて南極海を旅していたという。
が、ある日、激しい吹雪に行く手を阻まれた。帆船〈HERO〉は避難場所を探し求め、懸命の前進を続けていく。と、海面にそびえる巨大な岩と氷の塊が、ぽかりと口を開けたという。
――デセプション島は直径約15キロのドーナツ形で、輪の1カ所が切れている。そこから島の内側に避難して、雪嵐の終わりを待ったという。〈青海〉の南極初日の停泊地も、この島の中と決めていた。
とはいえ、自分の目で実際に確認しなくては、信じられないこともあるだろう。
そんなドーナツ形の島が、本当に存在するものか?
ブエノスアイレスを出て1カ月、毎日のように位置を海図に印してある。南極半島に向かう〈青海〉の航跡が、確かに記入されている。でも、それは間違いなく自分自身で書いたのか?
〈青海〉はいつ、どの港を出て、どこを目指しているのだろう。ぼくの記憶は絶対に正しいと、本当に断言できるのか。ひとりぼっちのぼくに、それを誰が教えてくれるのか。目の前の光景は、間違いなく現実と言えるのか?
背すじに不安を冷たく覚えながら、島のまわりに切り立つ崖沿いに進み、リングの切れ目を探していく。でも、それはどう見ても、岩と氷の大きな塊だ。ひょっとして、これは違う島なのか?
デッキに海図を持ち出して、島の形を何度も見比べる。次の嵐が来る前に、なんとしてもリングの中に逃げ込まなくては……。
入り口が見つかってほしいという期待と不安で、ぼくの頭は混乱していた。
が、不意に城壁の巨大な扉が音をたてて開くように、島を取り巻く崖に切れ目が広がり、通路が開けた。「これは間違いなくデセプション島だ!」
エンジンをスタートさせて帆を降ろすと、断崖の切れ目を恐る恐る通過して、島の内側に乗り入れる。巨大リングの中には、とても現実とは思えない、別世界の景色が広がっていた。
月刊<舵>2012年3月号より。