海の上は白い夢のような吹雪。船内温度は、およそ2度。氷山が現れないかと恐れている。
速度を増して1日も早く南極に着かないと、南氷洋の嵐に再び襲われる。なのに、小さなストームジブのまま走っている。大きな帆を張れば、即座に次の嵐が来るのではないか。根拠のない恐怖心が、帆の交換を妨げていた。
冷え冷えと広がる南氷洋の、すがすがしいほどの海原には、次々とイルカの群れがジャンプする。灰色の波間に、滑らかな白黒の肌。ときおり船底をくぐり抜け、縦横に泳ぐ。体の大半が鮮やかに白い、イロワケイルカ(パンダイルカ)だ。
横降りの雪に煙った寒空には、昨日から小型の鳥(マダラフルマカモメ)を見かける。チョコレート色の翼に、白い斑点模様が印象的だ。久しぶりに鳥を見るということは、陸の接近を示しているはずだ。
目指す南極諸島は、間違いなく前方に迫っている。悪天候のため、六分儀で自分の位置を確認できないが、南極航海に出る直前、アルゼンチンで日本の企業(光電製作所)から、衛星航法装置(NNSS)の提供を受けていた。1時間に1回程度、衛星が飛来するたびに、信号を受信して装置が計算を始め、10分ほど前の位置が表示される。
夜が来ても、夏の南氷洋は薄明るく、常に水平線が見えた。真っ赤な登山用防寒服上下、毛の靴下2枚を身に着けて、カイロのベンジンに点火する。ハッチから頭を出して氷山を見張りながら、同じ姿勢の連続で、やたらと肩が凝る。連日の徹夜で疲れていた。いつのまにか、うとうと眠りかけ、ふと気づいて腕時計を見ると、5分ほどしか過ぎていない。もしかすると、夢の中で眠って見ている夢の中。
灰色と黒ばかりの、どす黒い空と海に、夜明け直前の青い光が加わった。ほどなく朝日が雲間に昇ると、空は灰色、紺、オレンジの、まだら模様に変わっていた。
その下に広々と続く海原には、南極沿岸の島々が、ボツン、ボツンと壮大な姿を見せてきた。頂上は雲に隠れているが、標高2,000メートルを超える島もある。氷に覆われた白銀の島々は日を浴びて、まぶしい白色、いや、金色、どう見ても黄金色に山肌を光らせている。島の一つ一つが、こうこうと光を空に放出するようだ。
「あの輝く広大なスロープを、スキーで滑り下りたい……」
あまりにもスケールの大きな島々と海の景色は、なぜか初めて見る心地がしない。不思議だった。いつか夢の中で見たのだろうか。
南極諸島で特に有名なのは、デセプション島だろう。島の発見者とされる米国人、パーマー船長と乗組員たちは、19世紀初頭にアザラシの毛皮を求め、南極海を旅していたという。ある日、彼らの帆船〈Hero〉は吹雪に襲われ、避難場所を探して懸命の前進を続けていく。と、海面にそびえる岩と氷の巨大な塊が、ぽかりと口を開けた。――デセプション島は直径約15キロのドーナツ形で、輪の一か所が切れている。そこから島の内側に避難して、雪嵐の終わりを待ったという。〈青海〉の南極初日の停泊地も、この島の中と決めていた。
とはいえ、実際に自分の目で確認するまでは、信じられないこともある。そんなドーナツ形の島が実在するものか。
ブエノスアイレスを出て1か月、毎日のように位置を海図に印してある。南極半島に向かう〈青海〉の航跡が、確かに記入されている。でも、それは本当に自分自身で書いたのか。誰が、どこで、いつの時代に書き込んだのか。〈青海〉は何年前、それとも何十年前、どの港を出発し、どこを目指しているのだろう。ぼくの記憶は絶対に正しいと、間違いなく断言できるのか。独りぼっちのぼくに、それを誰が教えてくれるのか。目前の景色は確かにこの世のものなのか。〈青海〉とぼくは、もしかすると南極を目指す途中、ドレーク海峡の嵐で水深4,000メートルの海に沈み、今は……。そうでない保証はどこに。保証してくれる人はどこにいる。
背すじに冷たい不安を覚えながら、島の周りの崖沿いを進み、リングの切れ目を探していく。本当に入口などあるだろうか。それはどう見ても、岩と雪の大きな塊だ。ひょっとして、これは違う島なのか。
デッキに海図を持ち出すと、島の形を何度も見比べる。次の嵐が来る前に、なんとしてもリングの内側まで逃げ込みたい。氷山を見張る徹夜で、体力の限界を感じていた。このまま入り口が見つからずに嵐が来れば……。周囲の水面には、強い潮が小波を立てて流れ、舵を握った指先にも、潮流の不気味な手応えを感じていた。
すると不意に、城壁の巨大な扉が音を立てて開くように、島を取り巻く崖に切れ目が広がり、目の前に水路が開けた。
「これは間違いなく、デセプション島だ!」
*航海のより詳しい情報は、こちらで御覧いただけます。