白い幻影
海面上の高さ5mを超えるものを「氷山」と呼ぶ。体積の約9割が水面下に隠れ、その部分の形状は推測困難である。海中で横に大きく突き出している場合、通過する船舶の底に触れ、被害を与えることもあるという。不用意に接近しないよう注意が必要である。
予想外の事態と一連の失敗は、朝寝坊から始まった。
南極に着いて3日目の朝、船内は氷点下に近く、ベッドの暖かいフトンを出るのが面倒で、ぼくは早朝5時の出発を延していた。
次の停泊地は200kmほど先のメルキョー(Melchior)群島だ。海図を見ても、途中に停泊できそうな湾はない。小さな<青海> の速度では、徹夜で氷山を見張る2日がかりの航海だ。
が、わざわざ早朝に出なくても、計算では翌日の昼過ぎに着くだろう。ぼくはベッドに寝たまま、すべてを楽観していたのだ。
結局、デセプション島の入江を出たのは、朝8時過ぎだった。まぶしい雪山が続くリング状の島の中を、出口に向けて1時間以上も前進する。が、急に針路が狂い始めた。氷海航行のために装備した、オートパイロットの故障だ! ――予期せぬ一連の出来事の始まりだった。
直ちに停船すると、修理に取りかかる。だが、本体を開けようにもネジに合うドライバーがない。ぼくは工具入れから砥石とヤスリを取り出すと、ドライバーの先を削って合わせることにした。
それにしても、人間の気配のないリング状の島の中、周囲を白銀の山々に囲まれたスリバチの底のような水面で、機械を一人ぼっちで修理している……。半分夢を見ているような、妙に不思議な出来事に感じられた。
ようやく島の外に出たのは、昼少し前。微弱な向かい風で帆は張れず、エンジンを回して進んでいく。強い潮流があるようで、小さくても険悪な三角波が立っている。
予想外の修理で時間を無駄にしたが、明日の夕方には目的地に着くだろう。と、その時点でも、ぼくはまだ楽観していたのだ。南極では想像もつかないことが、いくらでも起こり得るはずなのに。
やがて数個の氷山と出合い、一つは今にも衝突しそうなほど近くを通過した。それにしても、なぜ、あんなに透き通った青なのか? 独特の表面模様は、どうしてできたのか? 垂直に切り立つ氷壁に、波が白く砕けている。
水平線に奇妙な光を目撃したのは、その日の夕方過ぎだった。進むにつれて、輝く点は形と大きさを持ち始め、こうこうと光る黄金色の塊に変化した。ぼくは双眼鏡を取り上げる。
丸屋根の大きな教会堂、いや、ロケットの巨大な格納庫にも見える。どうしてここ南極に? まさか宇宙人の基地……?
ハンドコンパスを向けて方位を測り、海図上で確かめると、それはどうやらオースチンという名の大岩だ。しかし、まるで人工物のような外観は、とても自然の産物には思えない。
次の奇妙な体験は、真夜中過ぎに始まった。薄闇と寒さの中、2個のカイロと紅茶で体を暖めながら、水平線に目を凝らし、徹夜で前進を続けていた。 無風に近い夜だから、帆を下げたまま、墨汁のように黒い水をエンジンのパワーで切り進む。
周囲の闇には、ぼおっと燐光を発するように、氷に覆われた島々の姿――病の床でうなされて見た、薄白い幻影のようだった。
奇妙なことに、まわりの黒い海面に浮く島々は、一時間前と少しも配置が変わらない。それどころかさらに数時間走っても、白い幻のような島影は、全く後ろに過ぎ去らない。
おかしい。
<青海>は真夜中の海にエンジンを鳴らし、速度4ノットで進んでいるはずだ。停船しているわけがない。逃げようとしても前に少しも進まない、奇妙な悪夢の中にいるようだ。
ライトを握り、船体の左右に光を振ると、すぐ横の黒い水面は、どんどん後ろに飛んでいく。やはり停船しているわけがない。なのに、島々が一つも過ぎ去らないのは……。
強い海流に押し戻されているのだ!
ただちにエンジンをフル回転にすると、最高速度5.5ノットで、黒い海面を夢中で突き進む。薄白い光をぼおっと放つ幻影のような島々は、幸いにも闇の中を動き始め、ゆっくりと後方に去っていく。エンジン整備に少しでも手抜きや妥協があれば、高速回転に耐えられず、前進は不可能に近かった。
海図も満足に作られていない最果ての海、そこは第一級の難所かもしれない。
全力で走る<青海>
が、流れを無事に抜けたとき、南極の夜空は寒々と白んで明けていた。進行状況を海図で調べると、目指すメルキョー群島はまだ100km以上も先だった。昨夜は予想外の時間を無駄にして、もはや日没前の到着は難しい。
でも、だからといって、夜の群島に進入すれば、闇に隠れた岩や氷に衝突するだろう。群島の前で朝を待とうにも、2日続きの徹夜では、体力と注意力が低下して、致命的な事故を招くかもしれない。
どうしよう? が、どうしようもなかった。ともかく進み続ける以外には。