南極に着いて3日目の朝、船内は氷点下に近く、ベッドの暖かい布団を出るのが面倒で、ぼくは早朝5時の出発を延ばしていた。
錨 をやっと上げたのは、予定を3時間も過ぎた朝8時。まぶしい雪山のリングの内側を、出口に向けて1時間以上も前進する。
黒岩の絶壁と座礁船との間を注意深く通過して、デセプション島を抜け出た〈青海〉は、氷に包まれた島々の浮く冷たい海を走りだす。周囲には強い潮流があるようで、小さくても険悪な三角波が立っている。
次の目標は、200キロほど先のメルキョー(Melchior)群島だ。朝寝坊で予想外の時間を無駄にしたが、明日の夕方までには着くだろう。ぼくはまだ楽観していたのだ。
やがて数個の氷山と出合い、一つは今にも衝突しそうなほど近くを通過した。それにしても、なぜあれほど透き通った青なのか。鉱物結晶を思わせる表面模様は、どのようにしてできたのか。垂直に切り立つ青い氷壁に、真っ白い波が砕けている。
前方に奇妙な光を目撃したとき、すでに日は沈み、時計は夜10時を過ぎていたが、まだ少し明るい南極の海。〈青海〉が進むにつれ、薄暗い水平線に輝く点は、形と大きさを持ち始め、こうこうと光る黄金色の塊に変化した。空に自ら光を放出するようだ。ぼくは双眼鏡を取り上げる。
丸屋根の大きな教会堂、いや、ロケットの巨大格納庫にも見える。どうしてここ南極に。なぜ、あれほどに光るのか。まさか宇宙人の基地ではないだろう。
ハンドコンパスを向けて方位を測り、海図上で確かめると、その方角にあるのはオースチンという名の大岩だ。あたかも建造物のような、どう見ても人工的な外観は、とても自然の産物には思えない。
次の奇妙な体験は、真夜中過ぎに始まった。薄闇の中、2個のカイロと紅茶で体を温めながら、水平線に目を凝らし、氷山を見張って夜通し前進を続けていた。無風に近い夜だから、帆を下げたまま、墨汁のように黒い水をエンジンのパワーで切り進む。
周囲の闇には、氷に覆われた島々が、ぼうっと燐光を発するように浮かんでいる。病の床でうなされて見た、薄白い人影のようだった。
奇妙なことに、黒い海面の島々は、1時間前と少しも配置が変わらない。それどころかさらに数時間走っても、薄白い幻のような島影は、少しも後ろに過ぎ去らない。おかしい。〈青海〉は真夜中の海にエンジンを鳴らし、4ノットの速度で進んでいるはずだ。停船しているわけがない。ひょっとして、逃げようとしても前に少しも進まない、奇妙な悪夢の中にいる……。
ライトを握り、船体の左右に光を振ると、横の黒い水面は、どんどん後ろに飛んでいく。やはり停船しているわけがない。なのに、島々が一つも過ぎ去らないのは……。
ただちにエンジンをフル回転にすると、最高速度5ノットで、黒い海面を夢中で突き進む。薄白い光をぼうっと放つ幻影のような島々は、しだいに闇の中を動き始め、ゆっくりと後方に去っていく。エンジン整備に少しでも手抜きや妥協があれば、高速回転に耐えられず、前進は不可能に近かった。
全力で走る〈青海〉が、無事に海流を抜けたとき、南極の夜空は寒々と白んで明けていた。進行状況を海図で調べると、目指すメルキョー群島はまだ100キロ以上先だった。デセプション島を昨日の朝5時、どうして予定通り出なかったのか。これでは日没前の到着は難しい。
といって、夜の群島に乗り入れるのは不可能だ。闇に隠れた岩や氷に衝突してしまう。群島の前で朝を待とうにも、もう1晩の徹夜を続ければ、体力と注意力の低下が、致命的な事故を招くだろう。
どうしよう。が、どうしようもなかった。ともかく進み続ける以外には。
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