町の中で暮らしていると、風のことを忘れています。一日の大半を屋内で暮らす我々現代人。風よりも大切なことが多く、忙しく、風のことなど考える暇はありません。
かつて、航海の動力は風でした。コロンブスのアメリカ発見や、日本の遣隋使や遣唐使が中国の進んだ文化を輸入できたのも、風で動く帆船、風のおかげです。それらの歴史が土台となり、我々は現代文明のさまざまな恩恵を享受できます。
風は数千年前からヨーロッパで風車を回し、水をくみ上げ、製粉に使われ、我々の生活を助けてきました。18世紀に蒸気機関が発明されると、風車の利用は激減しますが、21世紀の現代では、風力発電が注目されています。「風の時代」が再来するのでしょうか。
地球規模で大気をかき混ぜているのも、風に違いありません。結果的に寒冷地は暖かく、熱帯地域は涼しくなり、生き物にとって地球をより住みやすくしています。また、風がなければ、都市の汚染された空気は停滞したままとなり、我々は生きていけないことでしょう。
風の記憶は誰にもあるはずです。ビルの谷間で出遭った突風。山登りのとき、頂上で吹かれた心地よい風。風を浴びながら海辺を歩いた記憶。子供時代を回想すれば、さらに風の記憶がよみがえります。 地球に生まれ育った私たち、地球人にとって、木々、草花、山や川や海と同様に、風の存在は、かけがえのないものに違いありません。
風はどうして吹くのでしょう。ギリシャ神話にも、日本の昔話にも、風の神様が出てきますが、現代では、風は温度差で吹くと理解されています。
地球規模で見ると、熱帯の温度は高く、極地方は低いため、大規模な大気循環が起こります。地球の回転や陸地との摩擦により、実際の風向きは下図のようになります。
これは7月の概略的な風向です。赤道付近では東寄りの風が多く、南北半球ともに緯度が高まるにつれ、西寄りの風が一般的となります。図中に並ぶ白い○印は、赤道無風帯です。赤道地方で熱せられた空気が上昇気流になる場所で、風が弱く、天気の不安定な水域です。
帆船の時代、この水域に入ってしまうと、風がないため前進できず、やがて食料が尽き、幽霊船になってしまう……。命に関わる恐ろしい場所でした。 現代船にはエンジンがありますから、もはや恐れる必要はありません。赤道無風帯の怪談は、過去のものとなりました。
そこをエンジンを使わずに、<青海>は走り抜けたのです。昔の船乗りの気持ち、不安、焦りを実体験したいと思いましたし、風ではなくエンジンで走るのは、ヨット乗りにとって恥と思っていたからです。いったい、どのようにして、赤道無風帯を脱出したのでしょう?
実を言うと、赤道無風帯は、完全に無風の海ではありませんでした。
ほとんどは無風なのですが、ときおりスコールが来て、ごく短時間ですが、風が吹きました。その風を丁寧に拾い、帆を注意深くトリムし、毎日少しずつ、少しずつ、前進を続けたのです。 風上に進む性能が低い、昔の大型帆船にとって、それは十分な風とは言えないでしょう。また、風向が頻繁に変わるため、帆船の大きな帆を繊細かつ素早く操作することは、無理だったのかもしれません。
次に北太平洋の風(7月)を見てみましょう。
緑色の矢印と楕円の線で示したように、北太平洋では右回りに風が吹いています。図の風向は概略的なものですから、違う風の日もありますが、平均的な風向を表していると考えてください。
図から分かるのは、ヨットで太平洋を渡る際のコースです。日本から米国に行くには、北海道よりも北の高緯度を、緑色の矢印のように東に進めば、追い風に乗って楽に航海できるでしょう。また、米国から日本に向けて太平洋を横断するなら、赤道寄りを走るとよいことも分かります。北太平洋一周の場合は、緑色の線と矢印が示すように、時計回りに走れば、追い風で楽に航海できるでしょう。(他に波浪、気温、風力や嵐の頻度、他船の交通量、必要な航海距離等の考慮も必要です。)
<青海>が地球を回る間には、さまざまな風と出会いましたが、印象的なものの一つは、貿易風です。風向を示す図上で赤道無風帯(白○印)の南北を確認すると、それぞれ東寄りの風が吹いていることが分かります。これらは貿易風と呼ばれる風で、きわめて安定した向きと強さで、昼も夜も熱帯地方の海を吹き続けています。
天候に大きく左右される、かつての帆船航海にとって、安定した風は、とてもありがたいものでした。嵐や凪で航海が遅れることもなく、ほぼ予定通りに船を進めることができ、事前に到着時期も分かります。「貿易」のためには、うってつけの風だったのに違いありません。
貿易風の中を、<青海>は何週間も走り続けました。風があまりに一定だったものですから、帆の張り方の変更(タッキング)は3週間に1回というときもあったのです。 毎日毎日、天気は晴れ。水平線には点々と積雲が浮かび、裸の肌を風が優しくなでていきます。心地よくて、気持ちよくて、ほんとうに声をあげそうなほどでした。地球に生きていてよかった、この星に生まれてよかったと、心の底から思わずにいられませんでした。
もちろん、優しい風ばかりではありません。ときには家々を壊し、船を沈め、人々の命を奪うのも、風に違いありません。
南米チリの南部、パタゴニアと呼ばれる地方には、無数の島々が日本の本州ほども長く続きますが、その島々の間を吹く風が、ものすごいのです。険しい島々の地形が風を増幅するため、この地では木も曲がって生えるほどです。島陰に停泊中、烈風の轟音や震動が響く船内で、頭から毛布をかぶり、震えていたことも少なくありません。
同じパタゴニアのペナス湾、そしてマゼラン海峡では、強風に吹き流されるまま、どんな危険が行く手にあるか分からぬまま、<青海>は進み続けるしかありませんでした。風があまりに強く、それに逆らって引き返すのは不可能だったのです。絶体絶命の危機を全身に感じながらも、ひたすら進むしかありませんでした。
以上のようなことは、町の中で暮らす限り、おそらく体験することがないでしょう。毎日毎日、町の中を見、町の中のことを考え、町という群れの中で暮らす我々。でも、その生活は町の中だけて完結しているわけではありません。食料も、生活に必要な道具の原材料も、町の外、地球からもらっています。地球がどんなところか、よく知らないまま、そんな生活を続けていたら、結末はどうなることでしょう。
<青海>で航海しながら、地球表面の7割をしめる海、そこを吹くいろいろな風を体験したことで、地球という星を少しは知ることができた。体で実感できた。そんな気もするのです。
チリ多島海の烈風体験記や解説は、
Bluewater Story 14 ウィリウォウ
Bluewater Story 05 烈風のマゼラン海峡を行く
迷い込んだ暗礁地帯--パタゴニアのヨット航海記
貿易風関連の航海記や解説は、
Bluewater Story 余話 1
Bluewater Story 07 赤道で見た赤線を越えて
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