09. 迷い込んだ暗礁地帯

気がついたとき、自分は大きな間違いをしていて、そのために最悪の状況に陥り、おそらく助からない、もうだめだと思い、それでもなんとかして危機から脱出しようと、もがき続けることがある

ペナス湾縦断航海が、そうだった。

-- これは実話です --

1. 失った現在位置 2. 雨で何も見えない 3. 突っ切るしかない!

1. 失った現在位置

nort of Gluf of Penas

ペナス湾は、実に悪名高い場所だった。

「ゴルフォ(湾)デ ペナス、ムイ(とても)ペリグロッソ(危険)」

これまでチリの港で会った人たちは、スペイン語で口をそろえて言いながら、手のひらを上下に動かして、大波のまねをしてみせた。湾を渡り終えた付近には、危険な岩や浅瀬も点在するという。「ペナス」とは、スペイン語で苦痛を意味するとも聞かされた。

島々の海に入って8週間目、〈青海〉はチリ多島海に開いた大穴、ペナス湾を前にした。南米西岸に延々と続く無数の島々とフィヨルド地形は、この辺りで中断している。湾を渡って80キロ南に着けば、再び島々の続きが始まるのだ。


早朝四時、船室のベッドで目を開く。ペナス湾の北岸に近いバロッソ入江では、突風が闇にえ声を上げていた。大粒の雨が、ときおりデッキをたたく音。ハッチを開けて黒い夜空を見上げると、ポカリと開いた雲の穴から、さらに黒い空が顔を出し、星が一個、光っていた。

「どうしよう」。雨で視界が悪ければ、ペナス湾の南側に着いたとき、岩に乗り上げるかもしれない。せめて20キロ先が見えてほしい。付近の島々の方位を測って現在位置を求め、安全なコースをとれるだろう。

食事を終えてデッキに出ると、雨はやみ、明るい曇り空の朝だった。風は人を威嚇するように、強弱を変えて鳴る。だが、幸いにも北風で、湾を南下するには好都合。雨上がりの冷たく澄んだ空の下、アンデスの山々が、空と海の灰色上下に挟まれて、紺青の板を切り抜いたように見えている。

やはり決行しよう。悪天候で有名なペナス湾、何週間待っても晴天は来ないだろう。これでも今日は上天気かもしれない。

ただちに110メートルのロープを引いて錨を上げると、 かじ を握って入江を出た。ほどなくペナス湾に入った〈青海〉は、追っ手の強風を受けて快走する。だが、船体は波に大きく激しく揺れた。夜の闇が来る前に、なんとしても湾の南岸に到着しなくては……。ここ南緯46度の夏の日は、チリ時間の朝六時ころに明け始め、夜10時過ぎに暗くなる。

Gulf of Penas map

やがて湾の北岸は遠ざかり、背後に並ぶ鮮明な紺青の山々は、急に色あせて、曇り空のバックに溶けるように消えていく。辺りは陰気な空と海だけの、完全な灰色の世界に変わっていた。

出発から4時間後、湾の中央が近づくと、波は急激に高まった。波頭の鋭利な三角波が、不意に船尾に追突して空に砕け、頭上にバラバラと水の塊が落ちてくる。船体は上下左右に激しく揺れて、針路を保つのが難しい。まるで暴れ馬に乗るようだ。ぼくは振り落とされそうになりながら、夢中で命綱にしがみつく。

それでも、追っ手の強風に帆をはち切れそうに膨らませ、〈青海〉は灰色の海を突っ走る。空は陰気に曇っていても、心だけは晴れていた。この調子なら、日暮れまでに湾の南側に着くだろう。悪名高いペナス湾を、やすやすと、一見何事もなく渡っているのが愉快だった。

一つだけ気掛かりなのは、現在位置だ。出発から8時間が過ぎても、水平線には何もない。おかしい。すでに対岸の島々が現れる時刻……。降り始めた強い雨の中、進行方向に目を凝らす。が、そこにあったのは、次々に盛り上がる無数の波頭と、陰気な灰色の空ばかり。


2. 雨で何も見えない

south side of Gulf of Penas

雨が小降りになった。同時に視界が開け、左前方に大きなピラミッド状の島影が、魔法のように出現した。湾の南側のアジャウタウ(Ayautau)島(227メートル)に違いない。行く手の水平線にも、雨上がりの澄んだ空気の中、紺青の切り絵のように、島々の鮮明な輪郭が見えてきた。

「ついにペナス湾を縦断した、悪天候で名高いペナス湾を渡り終えた。全てが予定どおりに進んでいる」

そう思う間に雨音が強まって、間近に見えたアジャウタウ島も、あれほどくっきりと青く澄んだ前方の島々も、幻のように消え去った。辺りは再び、曇り空と海の灰色世界。雨が強い、本当に強くて100メートル先の波頭も かすんでいる。

浴室のシャワーを全開にしたような、頭に水圧を感じるほど激しい雨は、いつになればやむのか。行く手の海面には、無数の島々と危険な岩々が並んでいる。なのに、雨で見えない。〈青海〉の現在位置も分からない。このまま前進を続ければ、いつ衝突しても不思議はない。

帆を引き降ろし、停船を試みる。強風の中、それは全く無意味な行為。帆を完全に降ろしても、マストが受ける風圧だけで、船体はどんどん前方に流れていく。

もはやどうしようもない。止まることも、風上に引き返すのも不可能だ。風の威力、この絶対的な力には、何をしようと逆らえるわけがない。〈青海〉は危険な岩々に向けて吹き流されるしか……。一方向に動くベルトコンベア、いや、止めることも逆行もできない運命と時間に運ばれるように。

舵を自作のウインドベーン(風力自動操舵そうだ装置)に任せると、デッキから船室に下りて、海図を前に思案する。

「現在位置が不明でも、運がよければ目標のペンギン島に流れ着く。でも、雨で視界が最悪の中、コースが左に狂えば、島の左横を知らずに素通りする。といって、コースを右寄りに変更すれば、島の手前の暗礁地帯に、迷い込むかもしれない」。危険な、降りることのできないけだった。

気がつくと、いつのまにか雨はやんで、鮮明な視界が開けていた。〈青海〉の横には、小高い島影。あの独特な三日月形は、ペンギン島の10キロ手前、サンペドロ島に違いない。双眼鏡をのぞくと、木々の一本一本まで確認できる。急いでコンパスと六分儀で島を狙い、方位と仰角を測定すると、海図上に〈青海〉の現在位置を作図して、ペンギン島に向かうコースの線を引く。

わずか数分後、再び雨が降りだして、鮮明な景色を一瞬にかき消した。ペンギン島まで残り8キロ。デッキに立って舵を握ると、裸のマストが受ける風圧だけで、強風の うなる灰色世界を吹っ飛ぶように流れていく。

進行方向の空には、目指すペンギン島の輪郭が、うっすらと現れた。海図に引いたコースの線と比べ、5度右に見える。おかしい。が、その意味をよく考えずに舵を切り、コースを5度右に修正し、真っ直ぐに島を目指していく。

コースが少しでも右に狂えば、暗礁地帯に入るから、ペンギン島の輪郭に向けて一直線に舵をとる。空より少し濃い灰色のシルエットは、急に黒緑色に変わり、島の岸辺に砕ける白波も見えてきた。

「白波、波?」

波の大きさと比べれば、それは島というより大きな岩だ。何か違う、何かが狂っている。測深器の表示も、水深40メートルから十数メートルに激減した。「危ない!」


3・突っ切るしかない!





写真はありません。

撮る余裕など、なかったのです。




急に雨が小降りになったのか、目指す島のさらに向こうに、大きな山の輪郭が現れた。

「あれだ、あれが本物のペンギン島だ」

雨で視界が悪く、距離感も大きさの感覚も全てが狂ったまま、暗礁地帯の岩に向けて進んでいたのだ。

もはや疑いようもなく、海図上で緑に塗られた暗礁地帯の中にいた。船体の横では、海面すれすれの岩に高波が砕け、猛烈な水煙を上げている。全身を揺さぶるほどの迫力だった。海のパワーとすさまじさを、これほど心底から感じたことはない。座礁して〈青海〉が壊れても、命だけは助かると思っていたが、ここでの座礁とは、大波に持ち上げられた船体が、自分を乗せたまま岩に激しく投げつけられ、一瞬で破壊されて沈むことだ。

でも、だからといって、引き返すのは決定的に不可能だ。この強風と高波の絶対的な威力には、何をしようと逆らえるわけがない。どんなに頑張ろうと、風上には戻れない。

ならば、戻れない以上、引き返せない以上、暗礁地帯を突っ切るしかない。でも、突っ切る隙間もないほど岩々が密に並んでいたら……。たとえそうでも、ほかに選択可能な道はない。

覚悟を決めると、海面に全神経を集中する。〈青海〉の周りでは、いたるところに高波が白く激しく砕けている。だが、風で崩れる波と、水面直下の岩で砕ける波は微妙に違い、岩の存在がどうにか分かる。いや、確実に岩の位置を特定しなければ、〈青海〉とぼくは助からない。船体が波で高く上がるたび、前方を注意深く見渡して、危険箇所を確認し、一つ一つ避けて蛇行するように舵を切る。測深器の表示が浅くなるたびに、背中に冷や汗をかきながら、急いで船首を横に向け、水面下に潜んだ岩を直前で回避する。船体の周りで衝撃的に砕ける高波を、次々と体に浴びながら、白く泡立つ暗礁地帯の水面を、烈風に吹き飛ばされるように流れていく。

するといつのまにか、測深器の表示は再び40メートルを超えて、浅瀬の風下特有の、うねりも波もない静かな水面に達していた。


風雨に煙るペンギン島に近づくと、島陰に入って錨を投下する。

「助かった、本当に命拾いした」

真っ白く泡立つ浅瀬の海、船体の横で水煙を上げる黒い岩、鮮烈な映像が心に焼き付いて離れない。

恐怖と雨の寒さで、ぼくはガクガク震えていた。


Patagonian map

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