旅先や、日常生活の中でも、ふとしたことから先人や祖先の行動、苦労、あるいはその意味に気づき、「なるほど、そうだったのか」と、妙に納得することがないだろうか。
島々の海を南下しながら、ぼくの心はどれほど時代を旅したことだろう。
世界の隅々まで人が旅する時代でも、本物の秘境はどこかに残っているものだ。チリ多島海に入って46日目、延々と続く無人地帯を南下する〈青海〉は、3つの小島と岩々が並ぶ、アスボーン(Usborne)群島に立ち寄った。
この人里遠く寂しい島々には、人々が訪れる理由も必要性も見当たらない。辺りの水面は、いまだに測量されていないのか、海図には水深表示もない。記載もれの岩や半島さえ目撃した。これほど未知の海域には、予想外の危険が潜んでいるはずだ。
海底の見えない岩々を警戒しながら、全長5キロほどの島に向け、〈青海〉の 舵をとっていく。頼りにしている米軍発行の水路誌には、情報が少しばかり載っている。
「一番大きな島の東、深さ約10メートルの所に小型船は停泊可。海底の質は砂」
島の岸辺には、確かに美しい黄色の砂浜が見えている。ならば水路誌のとおり、海底も砂で、錨は確実に利くだろう。今夜は安心して熟睡できる。
錨を下ろすと、念のためにエンジンで〈青海〉を動かして、船体に固定されたアンカーロープの端を強く引いてみた。すると意外にも、錨は滑ってしまうのだ。海底の砂地は固く締まっていて、錨の爪が食い込まないのかもしれない。海底の質によって最適な錨が違うから、〈青海〉に積んだ3種類を全て試すことにした。
3時間後、重たい錨の上げ下ろし作業の末、ぼくは途方に暮れていた。どの錨でも、砂に効果が高いダンフォース型の錨でも、なぜか結果は同じ……。いや、そんなことがあるものか。砂の海底なら錨は利くはずだ。何かが、おかしい。
辺りはすでに夕暮れ時。急がないと日が沈む。夜中に風が強まれば、〈青海〉は闇の中を流されて、島々に衝突するだろう。残された方法は、錨の代わりに長いロープを海岸の木まで張ることだ。80メートルのロープを大急ぎでボートに積み込むと、黄色い砂浜に向かって 漕いでいく。
岸に着くなり、唖然とした。自分の両目が信じられなかった。足の下にあったのは、金魚鉢に敷くような美しい玉砂利の海岸だ。黄色い浜を踏むたびに、長靴が潜り、引き抜くときは足の甲からパラパラと砂利がこぼれ落ち、少しも抵抗を感じない。海底も玉砂利なら、錨が利かないのは当然だ。パチンコ玉に錨を下ろしたのと同じだろう。
そのとき、ぼくは直感した。
「人類の歴史が始まって以来、この島に停泊した船は、ほとんどなく、上陸を試みたのは、ぼくが初めてかもしれない。19世紀の昔、多島海を探検した英国船が、おそらくここを訪れ、美しい砂浜を見たと錯覚した。彼らはグリースを塗った小さな重りを投下して、海底の深さと質を調べたことだろう。水深の目盛りが付いたロープをたぐり、重りを水から引き上げたとき、海底の玉砂利にまじった砂が、グリースに付着していたのかもしれない。採取した砂粒と、目の前の黄色い浜を見て、『砂の海底、停泊に適す』と航海日誌に記し、それが水路誌に掲載されたのだろうか。この人里離れた小島に彼らが上陸する理由も必要性もなく、以後百数十年以上が過ぎた今日まで、錨を下ろした船も上陸した人間も、おそらく皆無に近く、それゆえに玉砂利の存在は、知られずにいたのかもしれない」
訪れる船もまれな当地では、停泊地情報の多くが、昔のままでも不思議はない。実際、〈青海〉に積んだ米軍水路誌、South America, Volume 2 の310ページには、さらに南のHazard群島について、次のような記載がある。
「ビーグル号は2度、群島に停泊したが、波風に 曝された最悪の場所だったという」
1830年代、進化論のダーウィンを乗せたビーグル号が、多島海の探検調査に訪れた。その当時の報告が、150年以上が過ぎた現在でも、唯一の泊地情報として掲載されている。
この付近一帯は、やはり秘境中の秘境なのだろう。