06. 引き潮の町から荒野の海へ

新しい世界に飛び込み、これから実力が試されるとき、不安と期待のまざる複雑な気持ちになるだろう。自分にはできるのか。能力の限界を超えていて、何もできずに自分は終わるのか。

チリ多島海最北の町で、ぼくは最後の準備に追われていた。

-- これは実話です --
puerto mont

なんと常識外れな港だろう。

水面にはコンクリートの岸壁が、3階建てビルの外壁ほども高くそそり立つ。小さなヨットにとっては絶壁で、陸に上がれそうもない。〈青海〉が着いたチリ多島海最北の町、プエルトモントでは、潮の満ち引きで7メートルも海面が上下するという。

港内に広がる浅瀬には、近隣の島々からジャガイモや羊などを運んできた帆船が、何隻も乗り上げて並んでいる。満ち潮のときに入港し、引き潮を待てば、やがて船底は浅瀬に乗り上げる。すると岸から馬車が現れ、積み荷の揚げ降ろしを始めるのだ。長さ10メートルほどの船体にエンジンはなく、いまだに木綿の帆、オール、潮流だけで航海するという。

陸に上がれずに困っていると、岸壁のチリ海軍船から声が掛かった。ヨットを海軍船に横付けし、デッキを通って陸に上がればよいという。岸壁と船の間には、タラップが架けてある。

全長44メートルの軍艦〈Lautaro〉を桟橋代わりに渡らせてもらい、人口十数万といわれるプエルトモントの町を踏む。

port of Puertomontt

背中のバッグからパスポートと書類を取り出すと、海上警察署に立ち寄って、慣れないスペイン語で入港手続きを終わらせる。これから数か月も続く多島海の長旅に備え、食料補給が必要だから、特産の赤いジャガイモ、茎が付いた緑色のタマネギなどを、町のメルカド(マーケット)で見て回り、二日がかりで〈青海〉に積み込んだ。千数百キロ南の町、プンタアレナスまでは、ほとんどが無人の島々で、物資の補給は困難と聞いていた。

辞書を片手に町を歩き回り、ときには店員とスペイン語で言い争いながら、この地方特産の羊毛で太編みした帽子、厚手の靴下、手袋なども入手する。緯度が日本の北海道に近いプエルトモントから、さらに十数度も高緯度のホーン岬を目指すため、防寒対策が不可欠だ。

この町を出てからは、昼間に島々の間を走り、夜は無人の入江で休む日々が続くから、十分な停泊用資材も必要だ。〈青海〉には3種類の錨、300メートルの錨用ロープ等々、艇長7.5メートルの小さなヨットにしては十分な装備を積んである。だが、石も飛ぶというアンデスの吹き下ろし、ウィリウォウの烈風が不安になって、ロープやシャックルを金物店で買い足した。

日本からの長旅で傷んだ数枚の帆も、ウィリウォウで破れないように整備する。糸のほころびを直し、生地がのびた部分は狭い船室に広げてリカットし、愛用のセールパーム(手のひら用革製大型指貫ゆびぬき)を使って縫い上げた。

この町からホーン岬まで、18,00キロも続くチリ多島海。無数の島々が複雑に入り組むフィヨルド状の広大な水域に、町は数えるほど点在するだけで、船舶の往来が少なく、調査も不完全な場所が少なくない。安全航海のためには、海図や水路誌の情報に加え、ローカル・インフォメーションが不可欠だ。ぼくは数十枚の海図をかかえると、〈青海〉を横付けした海軍船を訪問し、金ボタンの並ぶ黒い軍服姿の士官から、危険な岩や浅瀬や潮流について、詳細なアドバイスをしてもらう。彼は海軍マークの付いたワインを開けて、昼食まで 御馳走ごちそうしてくれた。

島々の海をヨットで安全に進むには、これまでの大洋航海とは異なる種類の、知識と技術と準備が必要だった。


慌ただしい出発準備をやっと終え、海上警察署で出港手続きを済ませた日、カラフルなバックパックを背負った若い男が、岸壁から大声で話し掛けてきた。月数便のフェリーに乗り遅れたアメリカ人観光客だ。急ぐから、プンタアレナスまで同乗させてくれという。

いったい、何を勘違いしているのだ。どれほどの覚悟と決意のもと、ヨットでヒッチハイキングをしようというのか。プンタアレナスまでは2か月以上の長旅だ。もう一人分の食料と水を、小さな〈青海〉のどこに積めというのか。旅客船のように、数日で到着すると思っているらしい。

陸の自動車や、安全を確保されたフェリーの旅とは、速度も、体験の厳しさも全く違うことを、少しでも知っているだろうか。艇長7.5メートル、搭載エンジン3.5馬力の小さなヨットでチリ多島海を進むことに、どれほどの困難とリスクが伴うか、彼は少しでも想像できるのか。

ぼくはかじを握ると、町の人々の常識が通用しない、「海」と呼ばれる荒野に出た。原始の世界のような、地球の命を実感させるチリ多島海に。

 


こちらに、解説があります。


Patagonian map

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