16. 平穏な海の落とし穴

順調に物事が進み、しばらく平穏な日々が続くと、危機意識が薄れてしまうことがある。過去の失敗と苦痛を忘れ、無防備なまま平気で前進を続けることがある。

烈風のマゼラン海峡を脱した〈青海〉は、穏やかな晴天の海を駆けていた。

-- これは実話です --
morris bay, Patagonia

それは遠い昔の悪夢のようだった。

空からは陽光が静かに降り注ぎ、周囲にそびえる壮大な山々の姿と、青い色彩は、あまりにも美しく、高い頂上には氷河が光っている。つい先日まで一か月半も航海したチリ多島海中部、雨にぬれた不気味な山々の姿と烈風は、遠い昔の悪夢のようだった。

南緯五四度のモーリス湾で、一夜の休息をとった後、〈青海〉は次の停泊地に向けて駆けていた。帆が役立たないほど弱い風の中、三・五馬力の小さなディーゼルエンジンを軽快に鳴らし、波のない平穏な水面を切っていく。

コクバーン水道

出発から五時間ほどで、次の停泊予定地、ソフィア湾を目前にしたとき、南半球の太陽はまだ北天の山上に輝いて、さらに三五キロ先のニーマン湾まで行けそうだった。いや、無理かな、ぎりぎりかな。向かい風が吹くか、潮流に押し戻されれば、ニーマン湾に着くより前に日が暮れる。

そう思い悩んで決断を延ばす間にも、〈青海〉はどんどん前に駆けていく。気がついたとき、すでにソフィア湾は後ろに過ぎていた。

この調子なら、日暮れまでにニーマン湾に着くはずだ。やはりニーマン湾を目指して前進を続けよう。少し無理かな、いや、大丈夫なはずだ。

行く手の平穏な水面には、途中の岬や小島が予定どおりに現れ、山々の姿と色彩が素晴しく、全てが順調に進んでいく。先日まで続いた強風の中の航海、神経を張り詰めた日々、鋭い刃物を握り続けるような緊張感を、ぼくはほとんど忘れていた。

前方の海面には、やがてニーマン湾の口が見えてきた。気がつくと辺りは薄暗い。腕時計を見ると、すでに午後七時。

「しまった、時間の見積もりを誤った。前方から来る潮に押し戻されたのか。とんでもない失敗をしでかした」

湾内に入ると、ほとんど辺りは真っ暗で、周囲の状況もデッキの上も見えず、〈青海〉の位置は全く分からない。いかりを打つ場所の判断も、ボートをいで陸の木にロープを張る作業も不可能だ。このままでは夜中に潮や風に流されて、岸に乗り上げてしまう。どうしよう。

ふと、耳を澄ますと、かすかに水の流れる音。海に小川が注いでいる。川口付近の海底には、砂や泥が堆積たいせきし、錨の利きがよいはずだ。そこまで行けば、停泊できる。

岸が遠いか近いか全く分からず、目を開いていることさえ不確かな深い闇の中、全力で耳を澄まし、灯台の明かりを目指すように、川音に向けて微速で前進を開始する。しだいに減少する測深器の表示が水深二〇メートルを切ったとき、CQR型アンカーを闇の海面に投下した。

エンジンで船体を動かして、錨の利き具合を確かめる。どうやら海底を滑っている。ヘッドランプの光を頼りに、錨のロープを一〇〇メートルまで伸ばしてみた。するとなんとか海底に食い込んだが、夜中に強風が吹けば、錨が外れ、〈青海〉は闇の中に流されてしまうだろう。

岸までロープを張りたいが、湾の状況が全く不明な闇の中、ボートを漕いで〈青海〉を離れれば、どんな危険に遭遇し、どんな事故が起こるか分からない。

やはりあのとき、最悪の場合を想定し、前進をあきらめて、ソフィア湾に〈青海〉を入れるべきだった。心の隅で、もしかすると間に合わないと知りながら、前進を続けたのではないか。海が穏やかで、山々があまりにも素晴しく、平穏な時間が続いたものだから……。



*航海のより詳しい情報は、こちらで御覧いただけます。

ニーマン湾

Patagonian map

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