「ホーン岬」、この短い言葉がヨット乗りの血を沸き立てる。――地の果ての南米最南端にそそり立つ、太平洋と大西洋を分かつ伝説の岬。
パナマ運河の開通する20世紀初頭まで、南極大陸から1,000キロ足らずというホーン岬の周辺では、猛烈な嵐で数々の船が難破、消息を絶っていた。海の最悪の難所、魔の岬、恐怖の象徴として、ホーン岬の名は船乗りたちを震え上がらせ、語り継がれてきたという。
現代でも、ホーン岬を小さなヨットで目指すのは、命がけの冒険だ。それだけに、成功すれば至上の喜びと名誉に違いない。挑戦者は後を絶たず、遭難するヨットは少なくない。登山家にとっての最高峰、エベレストのように、ホーン岬は危険な、けれども野心あるヨット乗りには憧れの、目標地点でもあった。
その岬の前を通るばかりでなく、ぼくは自分自身の足裏で、実際に岬を感じたいと望んでいた。人々はそれを不可能で無謀な挑戦と言い、本気で耳を傾ける者はない。
南半球の四月初め、パタゴニアの多島海を南下する〈青海〉は、地上最南の町、人口約3,000のプエルトウィリアムスに到着した。
桟橋に上がるなり、写真を撮るなと告げられた。小さな町の意外に大きな港には、灰色の軍艦と魚雷艇が並び、丘の上には赤白模様の通信塔が立ち上がる。この海軍基地から百数十キロ南に、目指す岬は位置している。
ホーン岬の詳しい情報を得るために、基地の司令部を訪ねてみる。入り口の兵士に事情を話し、やがて案内された事務所の一室。そこに座っていたのはコマンダンテ、基地の最高司令官だ。
ネイビーブルーの軍服を着た年配の紳士は、微笑みながら握手を求めた。ぼくは自己紹介を済ませると、壁に張られた海図の上に、岬に向かうコースを指で描く。
「だめだ。軍事上の理由で、Murray 水道の通行は許可できない」
コマンダンテは、きっぱりと言いきった。そして代わりのルートを指し示し、途中の危険な岩や潮流、嵐の際の避難場所など、詳しい助言をしてくれる。態度は驚くほどに好意的だ。できれば、岬の安全な上陸地点も教わりたい。が、「ホーン岬に上陸したい」と打ち明けて、「そんな危険行為は禁止する」と言われれば、夢が夢のままに終わる。
独り言のように、軽い調子で言ってみた。
「岬の前を通るとき、幸運にも天気がよかったら、ボートを漕いで上陸してみたい」
急に彼の笑顔が曇った。ぼくは失敗したと思って唇をかむ。しばらく沈黙が続いた後、コマンダンテは語り始めた。
「ホーン岬の海域では、強風が連日のように吹き荒れる。数か月前、ドイツのヨットが烈風に逆らって丸4日も走り続けたが、岬に少しも近づけないまま、とうとう大波にのまれて転覆した。我々チリ海軍が救助して、この基地まで連れてきたのだよ」
彼は机に手を伸ばすと、今日の天気図を取り上げた。
「ごらん、低気圧がいくつも並んで、毎日のように通っていく」
「でも、低気圧の後には、必ず高気圧が来るでしょう?」
「いや、君は間違っている。高気圧は来ない。低気圧だけが次々と通過するのだよ。夏ならば、まだ見込みもあるが、今はもう4月だ。南半球の冬は目前で、天候は絶望的に悪い。チリ海軍は君のために各種の援助が可能でも、この地方の天気に関しては、神に祈るほか道はない」
真剣な口調でコマンダンテは続ける。
「日本からここに来るまで、地球を半周する長い航海で、君は嵐を何度も体験したはずだ。しかし、ホーン岬の嵐は、ほかと違って……」
彼の言葉をさえぎるように、ぼくは後を続けた。
「それは深さ4,000メートルの海底が、岬の付近で急に100メートルほどまで浅くなる。そのために起こる 急峻な三角波が、船にとって非常に危険なのです」
「まさにそのとおりだ。波長の短い悪質な三角波に襲われて、帆やマストを失えば、たとえ沈没をまぬがれても、小さなヨットは流されて岩に衝突するか、大洋を永遠に漂流するばかりだよ」
彼の厳しい言葉が、ぼくの体と心の奥底に刻まれた、触れたくない記憶、思い出したくない感覚、忘れていた荒海の恐怖を、身震いしそうなほど鮮明に呼び覚ます。が、上陸を禁止するとは、彼は一度も口にしない。単独で上陸可能とは、おそらく考えてもいないのだ。
夕方、コマンダンテがトヨタの四輪駆動車を港に乗り付けて、岸壁から〈青海〉を見下ろした。
「これほど小さなヨットで、日本からよくここまで……。ホーン岬を無事通過できるよう、くれぐれも慎重な航海を」