30. パラダイスという名の地獄絵


Almirante Braun base from the distance
-- これは実話です --

1. ブラウン基地 2. パラダイス

1. ブラウン基地

Dorian Bay, Frozenドリアン湾の日の出

ヴィーンケ(Wiencke)島のドリアン湾に、日の出前の青い光が、澄んだ水底のように満ちている。空も、海も、周りの山々も、真っ青な明け方の夢のよう。

停泊中の〈青海〉を囲む水面は、あたかも青石張りの硬い床。湾一面が凍って身動きできないか。ゴムボートのオールを手に取ると、デッキから身を乗り出して海を突く。力を込めたオールの先は、氷板をガシャリと貫いた。厚さ2センチもない薄氷だ。船底をステンレスの板と金網で補強した〈青海〉なら、湾を出るのに支障はない。

快晴の澄んだ夜明け空に、ほどなく朝日が昇り始めると、湾の沖の海面では、氷に包まれた標高2822メートルの頂上が、ドキリとするほどの輝く紅色に染まってきた。

5日も続いた雪まじりの風は、 うそのように静まって、見上げる空を隅々まで探しても、心が吸い込まれそうに青いばかりで、一切れの雲も見当たらない。

ついに何年も待ち望んだ朝が来た。半月前に南極の火山島に着いて以来、氷に包まれた島々の間を南下して、いよいよ今日は南極半島に到達する。地球最南の大地、あこがれの白い大陸を、自分の両足で踏みしめるのだ。

薄氷の板を船首の先で割りながら、〈青海〉はドリアン湾を抜け出ると、ノイマイヤー水道を走りだす。しだいに高度を上げる朝の太陽を反射して、氷をかぶった島々は、まぶしい銀色に輝いた。濃いブルーの海に点々と白く光る、長さ数メートルの氷塊を、蛇行するように避けながら、着実なペースで前進する。

ときには大きな氷に衝突し、ガツンと激しい衝撃を受ける。そのたびに、〈青海〉の船体とぼくの心臓は、一瞬、止まりかけていた。


出発から六時間後、南極大陸の上陸点に決めたパラダイス湾に着いたとき、午後の太陽は山々の氷の稜線りょうせんに、そろそろ近づきかけていた。

奥行き十数キロの広々とした湾内は、魔法をかけたように静まって、かすかな風も、さざ波もない。周りを取り巻く白銀の山々が、風の侵入を防いでいた。

それは信じがたいなぎだった。これほどの無風も、これほど真っ平らな海も、かつて経験したことがない。

湾の水面は、あたかも1枚の巨大な鏡。周りを囲む白銀の山々が放つ光を、そのまま完璧に反射している。氷をかぶった山々の輝く姿、まぶしい雪景色を、上下対称に映している。

水銀状に光る広大な水面には、周囲の山々から崩れて漂う無数の白い氷塊が、心臓を握り締められるほどに美しい。

湾の奥を目指す〈青海〉の前方には、氷と岩の白黒模様が、水面から空に向けて1,700メートル以上も立ち上がる。その壮大な陸地と海との境界線に目を凝らすと、かすかな点のように、数個の赤い建物が見えてきた。アルゼンチンの科学ステーション、アルミランテ・ブラウン基地だった。

Paradise Harbour Almirante Brawn Base

湾に入って1時間半後、基地の50メートル手前に達すると、ボートを水に下ろし、水鏡に映る山々を揺らして何の困難もなく ぎ進み、憧れの大陸、念願の目的地、地球最南の白い大地を、ついに自分の両足で踏みしめる。

数年来の夢がかない、南極大陸に到達した。アルゼンチンで頑張った〈青海〉の改造作業、夜遅くまでの資金稼ぎ、あの忘れられない転覆事故、荒波のドレーク海峡を渡る苦しい日々……。だが、感動に浸る余裕はない。硬く鋭い大小無数の氷塊が、潮に運ばれて動き回る湾内で、〈青海〉が無事に今夜を過ごせるか、ただそればかりが気掛かりだ。

岸の斜面をゴム長靴で踏んでいくと、やがて目撃したのは、赤びた鉄骨やトタン板が折り重なった、スクラップ置き場のような焼け跡だった。

数年前、ここで働く医師に、もう1年の南極勤務が言い渡された。それを不満に思った彼は、どうしても帰国を果たそうと、診療室のX線装置をショートさせ、基地に火災を起こしたという。

全焼した母屋おもやの周囲を歩くと、倉庫や発電棟、工作場のような建物が、全く無傷で残っている。その一つに入ってみると、昨日まで人がいたように、機械や工具類が手入れされ、整然と配置されていた。

焼け跡から200メートルほど離れた岩場には、青白い氷壁を背景にして、赤塗りの小屋が鮮やかに映えて立っていた。 真鍮しんちゅう製の丸いノブを回し、入り口のドアを恐る恐る開けてみる。

refuge hut in the Paradise Bay

目の前には、玄関のような小部屋が現れ、スパゲティとマカロニの大袋が、いくつも棚に詰まっている。下段には1枚のメモと一緒に、ポーランド製瓶詰ジャムやビスケットの箱も並んでいた。メモの内容では、2か月ほど前の真夏の時期、ポーランド隊が無人の基地を訪れ、記念に残したものらしい。

次のドアを開けてメインルームに入ると、ガラス窓から差す夕日で、部屋中が気持ちよく明るい。中央には食卓のような四角いテーブル。壁の棚にはラベルがスペイン語のチョコレート、缶詰、雑誌が並び、奥に小さな台所、2段ベッドも見える。母屋が焼けたとき、この避難小屋で救助船を待っていたのだろう。

ふと思いついて、雑誌や缶詰を手に取ると、一つ一つ調べてみた。どれも七年前の日付で、なぜか新しいものは一つもない。基地が燃えて放棄されたのは、2年前のはずなのに。奇妙だった。この湾内では、もしかすると時間の流れが狂っている。それとも、ぼくの頭のほうが……。広大な未知の大陸の片端に建てられた、かすかな人の気配も音もない小屋の中、独りぼっちで立ち尽くし、目まいがするような、奇妙な心地に襲われた。

Almirante Brawn Base
To Padise Bay, the Antardtic

2. パラダイス

Paradise Harbour
20分ほどで外に出て、海岸の岩場をゴム長靴で踏んだとき、夕暮れの赤みがかった弱々しい太陽が、パラダイス湾一面を夢の映像に変えていた。

眺めは、まさにパラダイス。磨き上げた巨大な銀盤のように光る海。その上に点々と漂う大小無数の氷と氷山。広い水面を取り巻く氷の山々は、極楽浄土のように荘厳な光を一斉に放ち、神々しい姿を銀盤の海に映している。19世紀に湾を発見した人たちも、同じ光景を目撃し、「パラダイス湾」と名付けたのか。とてもこの世の眺めとは思えない。

だが、さえぎるもののない広々とした水面に、湾口から風が吹き込めば、一つの重量が数百キロから数トンを超す氷塊が、湾の奥まで無数に寄せられて、船体を隙間なく囲んで閉じ込める。湾内を潮流に乗って動き回る氷山が、停泊中の〈青海〉に接触すれば、鋭い角で船腹を切り裂くかもしれない。

氷の怖さを知った今、大小無数の氷塊が漂う湾内、岩のように危険な氷が動き回る不吉な景色、何年も求め続けた目的地の眺めは、まさに「パラダイス」という名の地獄絵だった。

ボートを漕いで〈青海〉に戻ると、デッキに腹ばいになって両手を伸ばし、海面からスイカほどの氷を引き上げる。立ち上がってツルハシを振り下ろすと、氷河の氷は想像以上に硬く、ガラスの塊を砕くようだ。

割った氷を鍋に詰め、船室の灯油バーナーの上に載せ、夕飯用の真水をつくる。氷の小さな塊は、溶けるにつれて上下のバランスを失い、クルリクルリと面白いほどに回転する。氷山に近づくと危険な理由も、これを見ると簡単に理解できた。

船室の外では、ときおり遠雷のような音が鳴り響き、大量の氷が山々から海に崩れ落ちる。その鋭い無数の氷塊が、潮に運ばれてゴツンと船腹に打ち当たる、一瞬ドキリとして身構える心臓に悪い音。氷に密閉された太古の空気が、次々と水中にはじけ散る、意外に大きなピチピチ音。小さな〈青海〉の船体は、いくつもの音色に包まれている。

パラダイス湾一面に、やがて青黒い夕闇が下りてくると、船体を取り巻く水面には、薄氷のフィルムが張りだした。南極では、冬が始まりかけている。1日でも早く脱出しなければ、〈青海〉は氷に閉じ込められてしまうだろう。

翌朝、その美しくも恐ろしい湾を逃げるように立ち去って、ヴィーンケ島のドリアン湾に引き返した。


池のように小さなドリアン湾では、暗いほど濃い青空の下、金色の日差しが無風の空気中に無音で降り注ぎ、氷の山々をまぶしく光らせる、絵のような時間が流れていた。紺青の空、海、白銀の山々を描いた巨大ドームの内側を、独りぼっちで見回すようだ。これほどの景色に巡り合えた人間は、地上に一握りもいないだろうな。

完璧な静寂を破り、ときおりペンギンの声が響く。湾の中央に泊めた〈青海〉から、岸を双眼鏡で眺めると、無数の白い腹が日を浴びて、岩場の上に並んでいた。近くの水中に目を落とすと、陸ではヨチヨチ歩きの彼らが、飛行機のように両翼を広げ、高速で飛ぶように魚を追っている。

炊事用の真水を求め、ゴムボートを湾の岸まで漕いでみた。万年雪の斜面を下る水流は、すでに硬く凍っている。氷の薄い場所を探して穴を開け、コップで何度も水をみ、ガーゼでしてポリタンクに注ぎ込む。

数日前、この白い斜面を歩いたとき、流れは凍っていなかった。急いで南極を出なくては、海面も厚く凍結し、脱出は全く不可能になるだろう。

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Antarctic map

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