32. 基地は越冬態勢に

-- これは実話です --
Faraday Base 英国ファラデー基地

峡谷の底の通り道、ルメール水道で進路を氷に阻まれた〈青海〉は、氷塊を押し分けるすさまじい音を立てながら、進んでは止まり、止まっては動き、少しずつ氷原を切り進み、やっとの思いで谷間の水道から抜け出した。

前方に寒々と開けた南極海。水平線の島々に双眼鏡を向けてみる。円い視野の片隅には、目指すガリンデス(Galindez)島、その上にミニチュアのように並ぶ英国ファラデー基地のアンテナ塔と建物群が見えてきた。南極の広大な景色の中、あまりにもかすかで、あまりにも微小な存在だった。

ガリンデス島の入江に着くと、氷海航行の精神的疲労が激しくて、丸二日もベッドに倒れていた。400メートル離れた基地までゴムボートを いだのは、3月21日。すでに南半球の秋分を過ぎていた。

基地の前の小さな木造桟橋にボートを着けて、エンジン音が響く発電棟の横を歩き、2階建ての母屋に近づいた。

冷凍室のような厚いドアの付いた入り口で、防寒服と手袋を脱ぎ、2階の食堂に上がると、タータンチェック柄の赤シャツと灰色ズボンの男が出迎えた。皆が同じ姿で、どうやら隊員のユニフォームのようだ。

「ようこそ。テーブルで紅茶でもいかがですか。これまでにフランスのヨットも来ましたよ」

「どんなヨットが?」

「あなたのよりだいぶ大型で、数人が乗り組んでいました。夏の間に帰りましたが」

「イギリスのヨットは来ないのですか? フランス人のほうが冒険好きかな」

「いやいや、我々英国民ほどにはね」

「ここには何人のメンバーが?」

「科学者、メカニック、調理師など合わせて24名ですが、まもなく半数以下に減りますよ。越冬態勢が始まって」

ブルックボンド(Brooke Bond)紅茶と、一通りの挨拶あいさつ、母屋の見学が終わると、シャワーを使いたいと頼んでみた。

「真水は貴重です。無駄にしないよう願います。ヨットに戻って、タオルや石鹸せっけんを取ってきたらどうですか」

「全部、上着のポケットに入っています」

「⁈……」

ブエノスアイレスを出て54日ぶりに浴びた熱い湯は、冷えきった体と心を温めた。


数日後、補給船〈Bransfield〉が訪れ、夏期隊員の引き揚げと物資の補給を完了すると、ファラデー基地では越冬態勢が始まった。

これ以上の南下は、もはや決定的に不可能だ。それどころか南極海を即座に脱出しなくては、水面が厚く凍り、〈青海〉は帰路を閉ざされる。

だが、北に向けて引き返そうにも、天気の安定した夏が終われば当然のように、雪まじりの風が吹き荒れて、出発できない日々が続いていた。

船室の気圧計は毎日のように指針を激しく上下させ、故障したかと思うほどに低い、955ヘクトパスカルを表示した。窓の外では突然に風が息を止め、雲間に うそのような青空が出ても、数分後には逆方向から猛烈な吹雪が襲う。低気圧の中心が、休む間もなく次々と通過しているのだ。〈青海〉に南極脱出の隙を与えないかのように。

毎朝、室温2度の船室に、2個の目覚まし時計が鳴り響く。今日こそは出発と思っても、天候回復の兆しはない。〈青海〉の小さな船体には、雪がどんどん積もっていくばかりだ。今に本当の冬が来て、〈青海〉とぼくは雪と氷に埋もれてしまう。それくらい、初めから、分かっていたことなのに。

三年前のホーン岬上陸、そして今回は南極大陸にも到達し、この美しい水の星を自由自在に旅するための知識と技術を手中にできた、海を知ったと、思い込んだのではないか。〈青海〉とさえ一緒なら、この地球上の、どの海でも渡り、どの陸地にも到達できると、錯覚したのではないか。


ガリンデス島に着いて12日目の朝、見上げる厚曇りの空は不吉なほど暗くても、恐れていた吹雪と風は、やんでいた。

次の雪嵐が来る前に、ルメール水道を再び通過して、北に60キロほど引き返そう。天気と運に恵まれれば、夕方にはアンバース(Anvers)島に着くだろう。いや、たとえ途中で嵐が来ても、仮に運が悪くても、これまでに多くの困難を克服したように、どうにかして無事にアンバース島までたどり着こう。そこから南極沿岸を離れてドレーク海峡に乗り出せば、およそ1か月でブエノスアイレスに着けるのだ。

In the Bay of Galindez Island

Antarctic map

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