やはり思いどおりには進まなかった。予想外の海流に押し戻され、2日がかりの航海は大幅に遅れていた。これでは到着前に夜の闇が来てしまう。
無風の海をエンジンで駆ける〈青海〉の左手には、こうこうと輝く光の帯が続いている。垂れ込めた雲の底と水平線とに挟まれた、横長いスリット状の空間に、氷に包まれた標高2,000メートルを超す島の 麓だけが姿を現して、まぶしい黄金の横帯に見えるのだ。白い氷の斜面が、なぜあれほど金色に。太陽は厚雲の上なのに、あの光はどこから来るのだろう。
島々が無音で輝く無風の海に、昼の時刻が近づくと、頬に横風が触れてきた。〈青海〉はマストの前後に大きく帆を揚げて、船脚を愉快なほど増していく。
この調子、この風なら、夕方までに目的地に着くだろう。夜間の到着をあれほど恐れたのが、嘘のよう。ぼくは笑顔で口笛を吹きだした。
目指すメルキョー群島の島々が、水平線に白い固まり状に見えたとき、腕時計はすでに午後8時を過ぎていた。まもなく夜が来てしまう。ぼくは焦って〈青海〉の 舵をとる。
右手の海面には、妙に薄汚れた白いドームが並んでいる。ドーム状氷山の一群だろうか。たいして気にもかけずに前進する。走行距離の計算では、そろそろ到着してもよい時刻。なのに、行く手に見える白いメルキョー群島の塊は、ほとんどサイズを増してこない。
おかしい。〈青海〉は速度4ノットで確実に進んでいるはずだ。その証拠に左右の水面は、どんどん後ろに飛んでいく。群島に近づかないわけがない。つじつまの合わない奇妙な夢の中、夢と知りつつ、ひたすら走り続けているようだ。いや、もしかすると昨夜のように。
と思う間に、横に並ぶドーム状氷山の群れは背後に過ぎ去り、空は暗みを帯びてきた。
前方の白い島々の固まりは、本当にメルキョー群島だろうか。それとも、南極海に多発するという蜃気楼か。ふと思いついて船室に下り、海図を詳しく調べたとき、ぞくりと背すじが凍りついた。
「あれは、さっき通り過ぎたのは、ドーム状氷山ではなく……。しまった!」
即座に〈青海〉を停船させた。本物のメルキョー群島をドーム状氷山の群れと思い込み、横を素通りしていたのだ。
日没前の到着は、もはや決定的に不可能だ。といって、夜間に群島に進入すれば、闇の中で岩や氷に衝突してしまう。群島の前で朝を待とうにも、昨夜は氷山を見張りながら、島々と競争するように〈青海〉を走らせて、全身に強い眠気と疲労を覚えていた。もう一晩の徹夜は体力的に無理だった。
船室に下り、加圧式灯油コンロで湯を沸かすと、紅茶にブランデーと砂糖を山盛り入れて、二重底の保温カップで飲みながら、現在位置を海図に4B鉛筆で記入する。
窓の外では、空と海が暗さをしだいに増していく。幸いにも、風は死んだように息を止め、波もない。辺りは水深400メートルほどで、深くて 錨は打てないが、平らな水面に浮いたまま、なんとか仮眠をとれるだろう。
海図上にディバイダーを当てると、周囲の島々から最も離れた場所を探し出す。船体が潮や風に流されても、島々に衝突するまで1時間半以上の余裕があるように。
紅茶で体が温まると、群島に背を向けて1時間ほど走り、予定位置に達したとき、闇の中でエンジンを切る。全ての音が消え去って、〈青海〉は黒い鏡のような水面に、ぽつりと浮かんで動かない。
静かだった。音のない夢の中のような、現実感の希薄な静寂だ。かすかな耳鳴りと、まばたきの音以外は。
2個の目覚まし時計を1時間後に合わせると、ぐっすり寝込まないよう、防寒服で着ぶくれの上半身だけをベッドにのせて、不自然な姿勢で仮眠をとる。
寝たと思う間もなく、時計のベルに飛び起きて、周りの黒い海面をチェックした。〈青海〉の右手には、長さ約60キロのブラバント島が、幼いころの悪夢に何度も現れた、闇の中の薄白い人影のように、ぼうっと微弱な光を放つ。が、左に見えるはずのメルキョー群島は、真っ暗闇に姿を消していた。用心しないと、潮に流されて衝突する。
1時間眠り、起きて、安全確認。数回も繰り返すと、南極の短い夜は明けた。ぼくはエンジンに始動ハンドルを差し込んで、力いっぱいに手回しする。
3.5馬力単気筒ディーゼルの規則正しい爆発音が、船体に心地よく響き始めると、舵を握り締め、船首をメルキョー群島に向けていく。
辺りは、広大な曇り空の下の、白い朝だ。
*航海のより詳しい情報は、こちらで御覧いただけます。