南極大陸上陸の夢を果たし、思い残すことは何もない。はずなのに、冬の迫る南極半島の岸沿いを、さらにどこまで南下できるのか、試してみようと決意した。
太陽が北天に近づいた朝10時、〈青海〉は60キロ南のガリンデス(Galindez)島に向けて帆を揚げる。にわかに空を埋め始めた雲の下、強風と潮がぶつかって、不吉な三角波を立てている。
行く手の青い水平線上に横たわる、白い山脈の塊には、ナイフで切断したような鋭い切れ目が見えてきた。峡谷の底の通り道、ルメール水道の入り口だ。およそ15キロ続くこの谷を、人々はコダック(Kodak)バレーとも呼ぶらしい。谷底の水面から 急峻な山々が左右にそそり立つ、南極の景勝地といわれる絶景に、皆が夢中でカメラを向けるためだろう。
北風に押されて南下する〈青海〉が、ルメール水道の口に達したとき、ぼくは双眼鏡を握って狭い谷間をチェックした。前方に続く川のような水面は、途中から青白い氷で埋まり、通過できる隙間はない。
無数の氷塊が密集して見えるのは、離れて眺めるからだろう。近寄れば、氷と氷の間が開くに違いない。エンジンを始動させて帆を降ろすと、谷底の水面を走りだす。
だが、近づけど、近づけど、前方の氷に隙間は見えてこない。ついに〈青海〉は、氷の密集する原野のような、白い水面に突き当たった。
長さ数十センチの透明な氷片、ドラム缶ほどの白い氷、数メートルを超す青白い氷塊が、びっしりと谷間を埋めている。これでは進めるわけがない。といって、すでに出発から5時間が過ぎた今、北風に逆行して引き返せば、途中で必ず日が沈み、闇に隠れた岩や氷に衝突する。引き返せない以上、戻れない以上、ともかく前進しなくては。
心を決めると、南極航海のためにマストに付けた17段のステップを駆け上がり、海面上10メートルから前方の氷原を見渡した。急峻な山々が左右にそびえる谷底の水面は、大小無数の氷で埋まり、通過できる隙間は見当たらない。やはり前進は無理なのか。
目を凝らして注意深く観察すると、前方の白い氷原の一か所に、円い黒池のような水面が、ぽかりと口を開けている。小さな氷片は押し分け、大きな氷塊は迂回して、ひとまずあの黒池まで前進を試みよう。マストを下りると、船首を氷原に突き入れる。
次の瞬間、氷とのすさまじい摩擦音が〈青海〉とぼくを包囲した。ガラスのように鋭い無数の氷片は、船首に絶え間なく当たり、船腹をえぐり取るようにこすりながら、船尾に次々と流れていく。重さ数百キロもある氷塊が衝突するたびに、〈青海〉とぼくの体は前後に激しく揺さぶられ、ガラガラという金属音が、アルミのマストに鳴り響く。船底は金属で補強済みでも、今にも穴が開きそうで気が気でない。
20分後、氷原に口を開けた黒池に達すると、再びマストに駆け登り、さらに前方を確かめる。今度は絶望に近かった。大小無数の青白い氷塊が、これまでよりも密に詰まっている。前進を強行し、氷原の中で行動の自由を失えば、風や潮で動く氷の力で、船体は破壊されるだろう。
谷底から空を突くマストの先端にしがみつき、瞳を凝らして進路を探す。やはり前方は一面の白い氷ばかりで、黒い水面はどこにも口を開けていない。氷原に閉じ込められたまま、やがて夜の闇が来てしまうのか。
双眼鏡を握り、懸命に周囲の海面を確かめる。さらに注意深く、あきらめずに何度も何度も瞳を凝らす。と、〈青海〉の数百メートル横、水道の岸に切り立つ崖の手前に、ほんのかすかな氷の裂け目が、黒い小川のように延びている。あの細長い水面まで行けば、おそらくルメール水道を抜け出せる。
急いでマストを下りると舵を握り、黒池の中から氷の白い縁を突く。が、だめだ、氷の密度が高すぎる。船体は氷原にめり込んで、ついに力尽きるように停止した。あの黒い小川のような水面に達すれば、水道を脱出できるのに。
ふと、白い氷原から空に視線を上げたとき、水道の左右に1,000メートル近く切り立つ山々の、息をのむほど鮮烈な映像が、両目に鋭く飛び込んだ。急峻すぎて雪も付かない荘厳な峰々。だが、斜面を縦横に交差して走る細い 窪みに雪がたまり、黒い岩肌は白く繊細な網目模様に包まれている。極限まで澄んだ冷気の中、絶壁状の山々は神々しいほどに、美しくも人を威圧する迫力で立っていた。