33. 美しさという資源

-- これは実話です --
Lemaire Channel to North

午前9時、〈青海〉はエンジンの暖機運転を済ませると、入江に張った板ガラスのような氷を船首で割りながら、英国基地の島を後にする。岸では作業中の隊員が、手を振りながら見送った。カメラを向ける人もいる。

ぼくが2度目に後ろを振り向くと、基地に並ぶ2階建て 母屋おもやも小屋も発電棟も、広大な海、空、氷の景色に上下左右からつぶされて、砂粒ほどにも見えていない。南極の白い光があふれる大気の中、ぼくは独りぼっちになっていた。

北上する〈青海〉はかじ を何度も左右に切りながら、せわしく蛇行するように、海面に漂う小さな氷を避けていく。南極沿岸に着いて1か月、氷の間のスラロームも、かなり上達したようだ。行く手には、両側を崖に挟まれた通り道、絶景で名高いルメール水道が、山々の谷間に口を開けている。

水道の口に着いたとき、峡谷の底の静まりかえった水面は、左右の険しい峰々と鉛色の空を反射して、完璧な水鏡みずかがみ 。上下対称な景色に挟まれた浮き氷も、今日はまばらだ。前回は氷で難儀したけれど、これならば夕方までに、約60キロ北のアンバース(Anvers)島に着くだろう。絶壁状にそびえる山々の威容を見上げて、ため息を何度もつきながら、谷底の水道を走りだす。

2時間後、目前に迫った出口から、猛烈な向かい風が吹き込んできた。荘厳な山々を映した水鏡は、たちまち破片となって砕け散り、水道内は白波ばかりに一変した。無数の波頭に紛れて上下する、鋭いガラス状の氷片を、細心の注意で避けながら、出口に向けて前進する。

気がつくと、〈青海〉の背後、風下側に、平たい丘のような氷山が立っている。振り向くたび、幅と高さをどんどん増している。氷山は全体積の約九割が水面下のため、風よりも海流に運ばれて、〈青海〉を追うように風上方向に移動しているのだ。

氷山から遠ざかろうと、エンジンのアクセルレバーを前に押す。が、あまりにも向かい風が強く、思うように速度は上がらない。前方から襲う強風と、後方から迫る氷山に挟まれて、〈青海〉は逃げ場を失った。

周囲が垂直に切り立つテーブル状氷山は、距離をどんどん縮めながら、見上げるほど間近に迫ってきた。青い蛍光色の壁に砕ける一つ一つの白波まで、くっきりと鮮明に見える。波で大きく上下する船体が、少しでも氷壁に接触すれば、表面の突起でたちまち破壊されるだろう。

エンジンの回転数をさらに上げ、氷壁から懸命に離れようと試みる。が、やはりだめだ。これほどの烈風に逆らって前進できるわけがない。逃げるのは無理、不可能だ。あと数分で間違いなく衝突してしまう。

ぼくは深呼吸すると、ふと思いついて、逃げるのをやめた。と同時に船首を横に向け、青白い氷壁の前を全速力で平行に駆けていく。その間にも、どんどん迫る氷の高い絶壁に、今にも接触しそうになりながら、氷山の端に達すると一気にかじを切り、後ろ側に回り込む。「ふう、危機一髪で助かった」

そう一安心したとき、谷底のルメール水道内を吹く風は、すでに異常な強度に達していた。水面の所々には、竜巻状の水煙が立ち上り、山々からは、雪が吹き飛んで数百メートルもの壮大な白煙の筋を引く。エンジン出力を最大にしても、子供が歩くほども進まない。

どうしよう、引き返そうか。いや、あと一息、もう少しだけ頑張ろう。運よく風が収まれば、夕刻にはアンバース島に着いて休息できるのだ。

でも、おかしい。水道の出口を通して見えていた、はるか前方の島々が、いつのまにか消え去って、灰色一色の空に変わっている。水道の左右にそびえて並ぶ岩と氷の険しい峰々も、ずいぶんかすんでいる。ゴーグルが曇ったのか。いや、顔から外しても同じだった。ということは、前方の視界が悪化している。

「あっ、進行方向から吹雪が来るのだ!」

もはや前進は決定的に不可能だ。それどころか急いで引き返さないと、雪に視界を奪われ、後退すらもできなくなる。

「よし、戻るぞ」、掛け声とともに大きく舵を切り、船首を180度回転させる。と同時に、水道の左右にそびえて並ぶ 急峻きゅうしゅんな山々の姿、黒岩と白い氷河の輪郭が、水晶のように透明な空気を通し、両目を痛いほど強く刺激した。数キロ離れた斜面の微細な突起や凹凸、ふもとに崩れた青白い氷の質感まで、手に取るようにクリアだ。山々の細密画を映した巨大スクリーンが、目の前に張られているようだ。

――吹雪で水道の北側は霞んでも、引き返そうという南側の山々の輪郭は、網膜を傷つけそうなほど鮮鋭だった。「美しさ」という資源が、そこには無尽蔵に存在するかのように。

Blue Iceberg in Lemaire Channel

Antarctic map

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