黒岩の絶壁(標高91メートル)の下を恐る恐る通過して、〈青海〉はリング状の島、デセプション島の内部に乗り入れる。巨大リングの内側には、現実とは思えない、全くの別世界が広がっていた。
真っ青な湖のように平らな水面。その周りをぐるりと囲み、まぶしい白銀に輝く山々。両目に飛び込む雪景色のパノラマは、絵はがきのようにきれいで、大きく、広かった。
極限まで澄んだ冷気は、ぼくの距離感を完全に麻痺 させた。数百メートル先の白い丘も、10キロ離れて輝く山々も、同様に鮮明だったから、全てがベタリと平面に並び、紙に印刷した画像のように、遠近感が少しもない。〈青海〉を取り巻く円筒形スクリーンに、まぶしい雪景色を投映したようだ。
そのスクリーンまでは、どれほど遠いか近いのか、目を凝らしても見当すらつかなくて、もしかすると、わずか十数メートル先かもしれなくて、船首が今にもぶつかりそうで気が気でない。
辺りは恐ろしいほどの静けさだ。〈青海〉のエンジン音も、水面を囲む雪山、光を反射し合うまぶしい雪の斜面に吸われていく。光が満ちあふれる直径約15キロの島の中、人間は自分一人きりなのだ。妙に寂しく、怖く、不思議だった。
雪山の輝くリングの内側は、滑らかな青池のような水面で、船体はピクリとも揺れていない。〈青海〉は本当に進んでいるのか。時間までもが凍りついたかのようだ。
このまぶしい巨大リングの内側に、時は存在しているのか。目の前に輝く山々と海の景色にとって、人類の歴史や時間はどれほどの意味があるのだろう。ぼくは何という時代の住人か。ここはどこ、自分は何をしている、やはり夢なのか。めまいがしそうだった。
光の中を進む〈青海〉とぼくを、ぐるりと巻いて囲むのは、白と青が上下に触れた、雪山と海の境界線。その一か所に、大きなオイルタンクと家のような建物が見えている。1920年代に閉鎖された捕鯨基地の跡だった。輝く雪景色の中の 廃墟を目の当たりにして、過去の時代に迷い込んだような、ひょっとすると赤錆びたオイルタンクの陰から昔の漁師が顔を出し、手を振りそうな、奇妙な心地を覚えていた。
あふれる光と静寂の中、前方の海岸線に目を向けると、湯煙がもうもうと立っている。浜辺に湧く温泉で、卵をゆでたり、付近の温水で泳いだりもできると、以前に海洋雑誌で読んでいた。
このカルデラ火山島の巨大リングの内側には、岬もあれば小さな湾もある。海図で決めた安全な入江に、〈青海〉は向かっているはずだ。なのに、行けど走れど目標地点は現れない。おかしい、火山灰に埋もれて消滅したのか。度重なる噴火で、島の地形は大きく変化したようだ。測深器の表示と海図の水深を比べると、十数メートル違う場所もある。もはや海図を信じては進めない。危険な岩や浅瀬は、どこかに必ず隠れているはずだ。
連日の徹夜の見張りで、全身に強い眠気と疲労を覚えていた。1分でも早く安全な場所に着いて休息しなくては、今に体力が尽き果てる。
海図上の目指す入江は、今も確かに存在しているのか。周りの輝く景色は、間違いなく現実といえるのか。
白い海岸線に双眼鏡を向けると、そこに見たのは、折れ曲がって重なり合う鉄骨のスクラップ。噴火で無残に破壊された気象観測基地の跡だった。
ふと振り向くと、いつのまにか島の口はどこかに消えて、白銀のリングは完全に閉じていた。停泊する入江も出口も分からず、時間のない島の中を永遠に迷い歩いて……。
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