34. もはや幸運を祈ることしか

-- これは実話です --
Sunset at Faraday Base ファラデー基地の日暮れ

ルメール水道内で針路を反転した〈青海〉は、追っ手の烈風に帆をはち切れそうに膨らませ、峡谷の底を全力で駆け戻る。

吹雪の白い津波は、〈青海〉の後を追うように、谷間をどんどん埋めながら、水道の左右に続く峰々を遠くのほうから順にのんでいく。20分前に折り返した地点にそびえる黒い山の岩肌も、すでに見えない。雪嵐に追いつかれたら、白一色に包まれて、進路をたちまち見失う。「急げ、ともかく急げ!」

英国ファラデー基地の島に戻るのと、雪が追いついたのとは同時。いや、正確には雪が勝っていた。でも、雪に抜かれたとき、島は声が届きそうなほど近かった。

安全な入江に逃げ込むと、仮のいかりを下ろし、ゴムボートを急いで岸にぐ。猛吹雪の中、停泊用ワイヤとロープを肩にかつぎ、入江を囲む丘の斜面をい登る。

雪煙に両手の指は白く消え、目鼻をふさがれて呼吸できないときもある。突風が襲うたび、急斜面の突起をつかんだまま宙に体が浮き上がり、危うく海に転落しそうになりながら、2本のロープを左右の丘の上に留め、大急ぎで〈青海〉に逃げ戻る。

1時間がかりの作業を終えて時計を見ると、すでに朝の出発から10時間が過ぎ、全身が重いほどに疲れ果て、気圧は20ヘクトパスカルも下がっていた。それどころか翌朝には、945ヘクトパスカルという、信じられない値まで降下したのだ。


天気を1週間も待った末の、敗北だった。

好天は訪れるのか。このまま嵐が続けば、南極沿岸を一歩も出られずに冬が来て、海が厚く凍結し、脱出成功の見込みはゼロになる。それどころか、氷の圧力につぶされて、船体は破壊されるだろう。

10日ほど前に南半球の秋分が過ぎて以来、昼夜の長さは逆転し、昼は週50分の割合で縮まり、日増しに夜の闇が南極を包み込んでいた。仮に南極沿岸を無事に脱出できたとしても、南米まで続くドレーク海峡で、レーダーのない〈青海〉が氷山に衝突する危険は、夜の長さとともに増していく。

〈青海〉を泊めた入江では、周囲を取り巻く茶色の丘が白く変わり、太陽が丘の上に現れるのは朝9時過ぎとなり、氷河を下っていた水流は固く凍っていた。南極は確実な足取りで、冬に向かっている。

粉砂糖のように細かな雪が、どんどん降り積もる〈青海〉の中、氷点の迫った船室で所持品をまとめた。5年の期限切れが近いパスポート、残り少ないトラベラーズチェック、思い出がぎっしりとページに詰まった日記帳、南極大陸で採った記念の石。命より大切かもしれない、でも、資金不足で満足に買えなかった写真のフィルム。それらを背負いバッグに詰め、いつでも持ち出せるように、いや、自分に何かあっても、写真と日記だけは残るようにと。

こんな準備は初めてだった。ホーン岬に上陸したときも、マストを折って漂流したときも、自分の命は必ず助かると、心の隅で固く信じていたはずだ。なのに、今はもう、何もかも分からない。ぼくには幸運を祈ることしか……。

吹雪が弱まれば、400メートル先の基地までゴムボートを漕いで、なんとか頼んでみなくては。


翌日の晩、母屋おもや の入り口で迎えてくれたのは、ベースコマンダー(基地の責任者)を務める物理学者、マーチンだった。越冬態勢に入って24名の隊員が10名に減ったから、廊下も食堂も休日の学校のように静かだった。

暖かい休憩室のソファに腰掛けて、勧められた夜食のハンバーガーに手を伸ばす。雑談しながら、話のチャンスを探っていく。

「南極で2年の任期を過ごす間、世の中はどんどん移り変わるでしょう? 社会の進歩に取り残されて、帰国後に困りませんか?」

5年ほども旅をしている自分自身を、ぼくは心配してもいた。

「世間では常にいろいろなことが変化して、そのスピードは速い。でも、目先だけのことさ。人間社会の本質的な事柄は、数十年単位で少しずつ変わるものだから」

マーティンは、あと1年で南極を離れて帰国する。と同時に、英国南極調査所との雇用契約が切れるらしい。この基地で働く調理師、メカニック、無線技師などの隊員も、2年の短期契約で雇われている。

「英国に帰ったら、どんな仕事を?」

「自分の生涯で何をするかは、帰ってから考えるよ。世間を離れて、考えが全く変わったし、町の人混みに戻れば、また大きく変わるだろうから……」

ぼくは一瞬当惑し、彼の顔をしばらく見つめた後、話を冬の暮らしに向けていく。

「11月に氷が解けて補給船が再び来るまでの約半年間、外部から隔離された狭い基地内で、朝から晩まで同じメンバーと顔を突き合わせて暮らすのは、特殊な体験に思えるのですが」

「そう、いろいろな人から、さまざまなことを学ぶよ」

「……」

「つまり、自分自身についてね」

会話が少し途切れた後、さらに質問するように、ぼくは話を切り出した。

「冬の間、この基地は人手不足では?」

すると心を見抜いたのか、ベースコマンダーは唖然あぜんとした顔で、ぼくを見た。

Inlet at Galindez Island

Antarctic map

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